伝道講演会「キレる時代に心の絆を」

10月13日土曜日13時より、聖学院中・高名誉校長 林田秀彦先生を講師としてお迎えし伝道講演会が開かれました。
讃美歌501番 第二編188番   聖書はエフェソ3:10〜19

〜講師紹介〜

林田秀彦氏 長崎県出身。東京神学大学大学院を修了後、いくつかの教会牧師を経て、1980年より聖学院中・高校校長。現 聖学院名誉校長。1984年、カリフォルニア神学大学院より名誉神学博士号を受ける。

林田先生は、現代の家庭における又教育現場における問題点を鋭く指摘され、現実的提言を明示されました。
沢山の実例とユーモア溢れる軽妙な話術、暖かくも厳しい内容に聞き入った一時間半でした。以下に講演概略をピックアップします。

(1) 最大の価値をもつものとして子どもに自己を認識させる(絶対的価値観)

 人間の魂や愛に対する感覚が驚くほどに失われていく事に対して、何故きちんと捉えることができないのか、どうすれば回復できるのだろうか。これからの時代を担っていく者達を育てる私達は、まずどういう目で子供達を見てきたか、どういう心の組み立て方をもって日常の生活を続けてきたかということを総ざらい、神様の前に新しくされていかなければならない。

 今日の社会を支配する相対評価。子ども達にとって、いつも誰かと比べて自分があるということは大変辛いことである。トップクラスにいないとものが言えない、そういうナンバーワン志向の中でどんなに子ども達は傷ついてしまっているのかということを私達は知らされる。 何か事件があると「キレる」という表現で報道されるが、それは間違っているのではないか。子供たちはすでに生まれた時から親子関係の希薄な中に育ち、人間関係が断ちキラれた状態にある。さらに自主性という名の下に無責任な放任状態に置かれている。

子ども達は自分の居場所を見失い「いまど何処」「いま何処」と常に捜し求めているようである。私は相対的価値観から絶対的価値観への転換の必要性を言い続けて来た。「誰がなんと言おうとお前さんは神様の前にかけがえのない大切な大切な一人なんだ」と、しっかりと言葉で伝えて生活環境を作っていくことが大切である。 具体的には学校における礼拝や祈祷会といったプログラムを通して、子ども達が自分はもう誰と比べる必要もないのだ、私は私だと気付かせる。 

今の子供達にはそういう心の底にずしんと来るものを、きちっと言ってあげなくてはいけない。OnlyYouという言葉によってどんなに輝きが出てくることだろう。私達は本気になってここで、しっかり視点を変え、絶対的価値観に立つことが重要なことではなかろうか。

 (2) 向き合う関係から見上げる関係へ 

(1) 「友達関係」から「永遠なるものを見上げる絶対的価値観に立つ関係」へ―父性の復権 

かつてアメリカには永遠なるものを見上げながら、そこには謙遜があり、従っていくという気風があった。しかし現代、精神的柱は消え、個々の意見は個人主義のもと高めあうことがない。全てが相対化されてしまった。そこに精神が死んでいくのだという事をシカゴ大学の社会学者アラン・ブルームが「アメリカンマインドの終焉」という本に著している。

 精神的柱が失われ、忘れ去られていくという状況は日本の家庭にもある。父と息子の人間関係が友だち関係である事を喜ぶお父さんがいるが、それは父としては失格で、子どもをだめにするのではないか。いざという時、子どもは父に従えるのだろうか。 林道雄氏は「父性の復権」という著書の中で、父と子の相対的関係の中で子どもは精神的堕落に陥れられてしまっていると訴えている。

文京区目白の金属バット殺人事件は記憶に新しい。エリート家庭の息子の家庭内暴力に対し、父親だけは献身的愛情をもって息子を理解し受け入れようとする。しかし父親の忍耐と努力に反し父子の関係はますます悪化していく。そしてついに精神的疲弊の末、眠っている息子を金属バットで撲殺してしまう。父親はもうバットを買ったという意識すらなかったという。 日本の今日を支配している問題がここにある。

私達は家庭にあって、子ども達をどのような意識をもって見ているのか。「私の価値」で見るのではなく、「神様から子どもをお預かりしている」という責任意識をもっているならば、「永遠なる命が子どもの中にあるんだ」と思うならば、それが損なわれるような言動に対しては厳しく指摘し命をかけて指弾していかなくてはならない。 聖書は神様の前に私達全ての者があらわにされていくのだということをいつも言っている。私達、お預かりしている者の責任として、そういう姿勢で、永遠なるものを共に見上げるという絶対的な価値観というものがきちんとあらわにされていくということが、まず第一である。 

(2) 見張る姿勢から見守る姿勢へ―体験を通してあらゆる感覚器官が安全な事、安定している事を体に浸透させる(シュタイナー)―心を養う場所の大切さ 

自分自身の居場所を見失っている子ども達に対しては、見張るのではなく見守るという気持が重要である。家の子が又何かやるんではないだろうかと、びくびくしながら子どもを見張っている母もいる。しかしそういう場合むしろ母親は子どもを見守って行く事の方が大事である。

「見張る」から「見守る」へ気持を変えていくためには、しかし相当の心の余裕、心の豊かさというものが必要とされる。「見守る」という心を作る場所が、親達にも大人達にも必要なのだ。子供達は自分自身の居場所を失っていると言ったが、実は大人たちも自分の居場所を失っているのではないか。こうした集まりで時間をかけて勉強したり、聖書の言葉を耳にしたりする、そういう場所があってこそ、私達親達、大人達もその場所で心を養い、本当にゆとりを持って子供達を見ることが出来るようになるのである。 

(3) 見えざるものに対する畏敬の心を育てる―「見えないものの中に本当があるんだよ」(サン=テグジュペリ)

 親と子が一緒に学んでいく場所では、見えないものを恐れる心、見えないものを真とする心を育てていく事が大切である。永遠なるものを見上げるという体験を通して人間関係の基本が培かわれていく。 池に石を投げた3歳の息子に池の魚や蛙の命の大切さを説いて聞かせた母親がいる。この母親はこの子がどういう人間に成長していくのかという視野に立ち、命を大切にするという価値観をもって子どもを育てているわけである。 また、4歳の男の子は初夏の山中に迷ったが、まだ肌寒い闇の夜中ずっと、「イエス様、アーメン」と繰り返し祈ることにより木の根っこに留まり救出された。この出来事は私の肺腑を貫き、幼稚園の年代の子供にこれだけのものを植え付けているものがあるんだと思った。 自分自身の心の中に真なるものを本当に持っているという事が子どもに映っていくという仕方でしか本当の教育というものは出来ない。

 なかなか難しいようだが、しかし私達誰もが出来ることがある。それは明るいユーモアのある受け止め方である。 例えば、母親は一言いえば喜び、一歩歩けば喜んだ幼年期を過ぎ学童になった途端、厳しい母に変わってしまうことがある。40点取ってきた子どもを叱るのではなく、「一緒になって、いなくなった60点を探しましょうね。」と言って、子どもと一緒に答案を広げて、いろいろ直してあげながら母親が丸を付けて、いなくなった60点を全部探してこれで100点になったねと喜んで、これを壁に貼っておく。そういうユーモアとか明るさがあると、子どもは40点取ってきてもちっとも怖くない。イエス様の聖書の教えの「愛する」ということは、「その子の足りない所も良い所も愛する」ということである。 

おじいちゃまおばあちゃまのお役目もある。親は正攻法でバンとぶつかっていくが、その子の中に一番欠けているものを、その背後にあってふわっと支えてあげる役が必要だ。おじいちゃまおばあちゃまがいてくださるご家庭というのは本当に違う。 

(3)悲しみを知る人

 @ 成長するということ

 朝鮮半島から、戦車砲と機関銃掃射をくぐり、ソ連軍、アメリカ軍の取調べを経て、ようやく長崎に帰国したのは、私が17歳の時だった。原爆の焼け野原に親戚を探す手立てもなく、長崎の波止場に寄せては引く波を見て座り込んでいた時、干満の差が8mもある潮が突然満ちてきた。そして同時に、もっと彼方から不思議な感覚がシュシュと迫って来た。この気持はなんだろう。それが神様の愛だとか、聖霊のお力だとか、全くそんなものは何もわからない頃だった。その後叔父に引き取られ、鎮西学院に入学し、下駄を履き聖書を抱えて通学した。しかし聖書は難解だった。聖書を読み進むうち、ある時「キリストの愛我らに迫れリ」(Uコリント5:14)という言葉にぶつかった。これは良く分かると思った。長崎の波止場の潮と共に迫ってきたものと聖書が結びついたのだ。 

悲しみを知ることによって出会うものがある。イエス様が私のような無知蒙昧な人間を捕らえて下さって、成長させて下さったのは、どういう風にしてく下さったのか。それはあのイエス様の本当のお苦しみがわかるようにしてくださったという事である。 子どもの成長の基準とは何か。体が大きくなって知識が増えるというのは勿論だが、そういう基準だけではない。弱いものに手を差し伸べる、そういうことが出来るようになったか、心が向くようになったか、言葉遣いが出来るようになったかである。これが成長するという事なのだ。

 A 生きる力 

童謡「ぞうさん」の作詞家まどみちおは小さい頃から教会学校に行っていたが、当時は敵国の宗教という時代だった。しかし、彼の中の「イエス様が大好きなんだ。あの十字架は自分も負っているのだ。」という、その思いが彼をしてそこに毅然と踏み留まり歩ませたのだった。 子どもが生きる力は本当は何で与えられるのか。自分の部屋やご馳走を沢山戴いたから子供は育つのではない。信頼感のあるしっかりした関係の中で育つのだ。生きる力ということを私たちは本当に考えていかなければならない。

 (4)響き合う喜び 

 詩篇19篇「語らずいわずその声聞こえざるに、その響きは天地にあまねく」という大変美しい言葉がある。響くということは、具体的に名前を呼ぶことである。 一人一人名前を呼ぶことにおいて教師と生徒の関係が神様の前において、共に祝福されるものとなっていく。親子でも同様である。

これが旧約聖書の響きあうということである。 きちんとした共鳴箱がなければ響き合わない。詩篇の19篇の響くという言葉の中には、エレミヤなどでも引用されているが、囲いを作るという意味もある。計り縄が地に落ちたという言葉があるが、計り縄できちんと囲いを作って見守られている場所。それが共鳴箱となる。イエス様はあなたのために場所を用意しておきますよと約束して下さった。教会ではいつもそのようにみんなの場所が用意されている。キリスト教学校の礼拝は、生徒も教師も一緒になって神様を見上げることができる場所を持っている。 響き合う関係を教会の中でも、もっともっと作っていこう。おざなりの関係でなく、名前を呼び合い兄弟姉妹のように交わっていこう。そして、「ああ礼拝に来てよかったなあ。」そういう思いがみんなの心にとどまっていく。心が晴れ晴れして喜びが発散されていく。「神の息よわれを癒し」と。神の息づかいは聖霊である。そこには輝きに満ちた喜び、ペテロ第一の言葉が、そこに響いてくる。長い時間かける必要はない。心をこめて一言「イエス様」と呼びかけることによって何ものにも増して大きな恵みと力を戴くことが出来る。 

(5)愛の命令―愛と秩序の回復 

イエス様が、命令形を使っているのは「それ以外には生きるすべがない、だからあなたは私に従ってきなさい。」という時である。 私達の生活でも同様である。両親が毅然としていなくては、いざという時、子どもは右往左往してしてしまう。たとえその決断が間違っていても、親子共にそれを又悔い改めていけばよい。「大胆に間違え、大胆に悔い改めよ。」(マルチン・ルター) 私達は本当に神様の家族(オイコス)として、この時代に、「ああいう交わりがあるんだ」「ああいう家庭があるんだ」ということを知ってもらうため、このお役を果たしていきたいものだと思う。

☆質疑応答☆ 

質問:家庭、キリスト教学校、教会の持つ役割とは。

 回答:受験指導と偏差値を見ていらしたご両親や子供達に対して、教育とは何ぞやと言うより、私達は、神様の愛の下におくとはこういうプログラムをもってやりますよと言います。互いの価値観の落差がますます深くなっていく時代だから余計に、福音の旗印というものがはっきり見える形で表わされていかなくてはいけないんじゃないでしょうか。はっきり違いが分かることによってお互いに理解していくことが出来る。 家庭では、子どもを育てていくやりかたとか、人様に触れていく態度とか、そういうことでちょっとちがうなということが積み重なっていくことが大事なのではないでしょうか。家のおばあちゃんは何かちょっと言っている事が違うなと、クリスチャンでない若いお嫁さんが思うことが良いんですね。 

質問:保護者会で先生から「正しいことと悪いことをはっきりしないと気がすまない。それで我慢が出来なくなってプチンとなる。多分このクラスの中でキレ易いのはおたくの息子さんですよ。」と言われたが。 

回答:根本的には、坊ちゃんとお母様とのコミュニケーションがある、坊ちゃんと神様のコミュニケーションがあるという関係がいつも保たれている事が大事じゃないかと思います。聖書の言葉を色紙に書いてテレビの横に貼っておくとか、そういう視聴覚の環境というのが今の中高生には良いんですね。家の環境を考える時は、子どもの目に何が映っているのかということを視野に置く。良いとか悪いとかを言うのではなくて、それを超えるもっと良いものを提供していく事が大事なんじゃないでしょうか。子どもは、それを比べながら良いものへと引き上げられていくんですから。