主は羽をもってあなたを覆い

 

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方」と。

神はあなたを救い出してくださる
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。  (新共同訳聖書 詩編91編1〜4節)


(37)「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(38)見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(39)言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」        (マタイによる福音書2337節〜39節)



詩編91篇の主題は、主は己を避け所とする人々をあらゆる災いから守りたもうことを歌ったものです。この一途な歌は、詩編著者の信仰を雄弁に語ります。ダビデの歌として知られていますが、主なる神の助けを経験し、主を避け所としている教会の歌、私たちの賛美だとも言えるでしょう。

T主はわが避け所
「いと高き神のもと(至聖所・絶対的に安全なところ)に身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ。神に申しあげよ。『わたしの避け所、砦、私の神、より頼む方』」と、詩編は詠います。
主を避け所とする者の幸福を語る詩です。
「いと高き者」「全能者」は、いずれも全世界の支配者にして、同時にその民を保護したもう主に対する名称です。「隠れ場」「全能者の陰」「わが避け所」「わが城」というのは、主に対する信仰告白を言い表すものでしょう。

U主は羽をもって私を覆い
神の守りの恵みは、「いと高き者の隠れ場」、「全能者の陰」「み翼の陰」という言葉で語られます。

全能者の特別な保護を、「羽」や「翼」という言葉をもって表し、「神は羽をもってわたしを覆い、翼の下にかばってくださる」という表現をするのです。
旧約聖書のルツ記2章12節に、「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」とあるように、神の祝福を執り成す祈りとしても用いられます。

詩編91篇と申命記32章は多くの共通点を持っています。

申命記32章11節には「鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように」と あります。奴隷として酷使されていた人々を神がご自分の民として救い出して下さった「出エジプト」の出来事を想い起しながら、神に固く結ばれた人々や共同体を神が守られるという保証を歌っています。
詩編91篇と申命記32章とに用いられている「羽」や「翼」という言葉は、ヘブル語原典では同じ語彙を用いています。

旧約聖書は、そのようにして、神の保護や神の愛を、母親の母性的暖かい愛、父親の力ある保護の愛という両側面から記しているのではないかとも考えられます。
新約聖書も、神がその民を保護することを、親鳥がその「羽」をもって雛を覆う様子で描きます。

マタイによる福音書23章37節※、ルカによる福音書13章34節※では、母鳥が雛を覆う「母鳥の羽」を、母親の温かく親密な愛の温もり、安全を表 わすものとして表現しています。我が子を思う母親の暖かい愛、襲いかかる危険と死に立ち向かって羽をもってわが子を守る母性的なイメージによって、神の強い愛を描いたと言える でしょう。

マタイによる福音書23章37節

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

 

ルカによる福音書13章34節

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

 

 

一方、「翼」という言葉は、「鷲の翼」と表現されることも多く、父親の力強い愛にたとえて、神の完全な保護を詠ったのです。

V十字架という翼を広げて我らを覆う
マタイによる福音書23章37節〜39節は、イエスの神的権能を表しています。

神の民の歴史の中で、神はエルサレム(神の民)を、何度となくご自分の羽の下に集め庇護なさろうとされました。

エルサレムに向かう旅 は、十字架の死へと向かう旅です。

37節は、その途上で、その町エルサレムに対して語ったイエスの嘆きの言葉です。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺すものよ。雌鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった 」。
ここで、イエスは、神の民が神に背き続けた長い歴史を視野に入れながら、父なる神に代わり、また、同時に栄光に満ちて来るべきメシアとして、一人称単数で 「わたしは」と語られます。

神の民イスラエルは、生み出してくださった神を忘れてしまった頑なな民であるイスラエル(申命記32章15節〜18節※)の背信の姿を嘆かれるイエス の言葉を通し、イエスを神以外に人に与えられることの出来ない力と祝福とをもって、「羽」で覆う神の姿として描いていると理解すべきでしょう。

十字架のイエス、聖霊を遣わすイエス、世の終わりまで共におられるイエスは神で す。
主イエスの十字架は、すなわち神の翼と言えるでしょう。

「父よ、彼らをお赦しください」と 、ご自分の死をもって民を守る神の愛の力強さを表す翼です。

反抗し応じようとしない民を、抵抗する子を守る神の愛の強さを表すのが主イエスの十字架で す。
教会は、神の羽です。神を信じ、洗礼を受け、神の下に身を寄せる民を保護し、温かく育てる羽です。雌鳥が羽をもって雛を覆い、危険から守ると同時に強く育つように命を育むように、神は教会という羽をもって 私たちを覆い強く育ててくださるのです。
神は、神の愛に応じようとしないこの世界のすべての人々をも、教会という羽をもって覆い、翼の下にかばってくださるのです。
十字架の翼の下にかばってくださる神の愛から、教会という神の羽をもってわたしたちを覆う神の愛から、なにものも私たちを 引き離すことはできないのです。ローマの信徒への手紙8章39節が「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と語る通りです。たと え千人があなたのかたわらに倒れても、万人はあなたの右に倒れても、その災いはあなたに近づくことはない。主はその羽をもって私たちを覆ってくださるから。
このことこそ、私たちの力強い慰めであり、私たちが感謝をもって誇れるものなのです。
 

※申命記32章18節 お前は自分を産み出した岩を思わず/産みの苦しみをされた神を忘れた。

 

 

2015年5月17日(日)夕礼拝説教より