6/24(日)洗足教会・伝道会証し

◎ 讃美歌 392番
◎ 聖書  エフェソの信徒への手紙6章10節〜20節

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
私が生まれた時、明治学院大学出身の愛校心の強い父は、島崎藤村作詞になる院歌にヒントを与えたこのヨシュア記1章9節のように「強く雄々しく」生きる者となるよう願ったのだそうです。
また母方の祖父で33年間に渡って高田馬場のシロアム教会で盲人伝道に携わり、12年程前に亡くなった大村善永牧師の「善」(「善悪」の善という字ですが)を取って名付けたそうです。
当時、両親が通っていた日野台教会で私は幼児洗礼を授けられており、とにかくこの世に生まれて来た瞬間からキリスト教という産湯の中にどっぷり漬かっていたようです。
こうして、物心付いた頃には毎聖日CSの教師や教会の役員をしていた両親と共に朝から夕方まで教会にいる事は、私にとって何の違和感も無くなっていきました。
その反面、このような生活を訳もなく否定したいと思う自我も、マグマが徐々に滞留するように少しずつ私の中に芽生えていき、とうとうそれは明治学院東村山高校に入学すると同時に爆発しました。
どのような形でかというと、キリスト教主義学校に入学したにもかかわらず3年間聖日礼拝を完全に無視しそれどころか日曜日には仲間と盛り場に繰り出しては好き勝手し放題の日々を送ったのです。
そして、聖書科の授業で礼拝出席の感想文を週報付きで提出するという課題が出された時など、わざとモルモン教の教会に行ったりするような有様でした。
そんな訳で、先日ひょんなことから高校時代の同級生で、東京神学大学を10年前に卒業して今はミッションスクールの教務教師をしている友人と久しぶりにある会合の場で顔を会わせて話をする機会があったのですが、その時、「北川の家ってクリスチャン・ホームだったんだ。」と驚かれてしまうほどでした。
それほどのめり込んでいた好き勝手し放題の日々が初めのうちは楽しくて仕方がなく、その遊び仲間の中心にいて、「善也ではなく悪也だ。」などと呼ばれていた私でしたが、そんな生活にも次第に空しさを感じ始め、このような私の自堕落な毎日をいつも後ろから誰かとてつもなく大きな方が常に見つめているという後ろめたさ、居心地の悪さを覚え、どうあがいてもその方の視線から逃れられない事に気付かされるに至りました。
20歳の年のイースターに狛江教会で信仰告白をし、大学に進むと同時に狛江教会青年会、そしてその所属する東京教区西支区(現在は西東京教区となりましたが)青年会での交わりを深めていきました。
この時の仲間の中から、この前の特伝でお話下さった久世先生の息子さんを始めとして東京神学大学出身の牧師が3人出ています。
さて私は大学卒業後、会社に就職して最初の配属先の埼玉支店を振り出しに社会人生活をスタートしました。
教会の青年会の仲間とは交わりを続けていたにもかかわらず、今日の川村先生の講演にもありましたが、今度は仕事の忙しさにかまけて再び教会から足が遠のき、それでも何も感じずに平気で毎日を過ごしていました。
そのような時に西支区青年会時代の面倒見の良い友人から白鷺教会に通っているというある女性を紹介され、すぐに結婚を考えて付き合うようになりました。それが妻の京子であります。
当時、名古屋で仕事をしていた私は、結婚と同時に名古屋中央教会へと導かれ、妻と共にそこで教会生活を再開しました。
聖日礼拝において主の御言葉を受けることの喜びと、それによって日々生かされまた魂を癒されていることに心から感謝の祈りを捧げる気持ちを取り戻す事が出来ました。
そして、信仰を中心とした同年代の方たちとの家族ぐるみの交わりにも恵まれ、教会に深く入り込んだ豊かな時を持つことが出来ました。
また、与えられた2人の子供にも振り返ってみると私がそうであったように、いつも主の存在を忘れずに歩む者となるよう、この教会で幼児洗礼を授けていただきました。
その一方、入社後10年ほど過ぎた頃からそれまで喜びをもって取り組んできた仕事に対しての考え方が少しずつ変わってきました。
ライバル・メーカーはもとより、身内である同僚でさえも蹴落としてのし上がっていく気力を持続する。そして毎年110%、120%という高い目標に向かってエンドレスで実績を上げ続けていくことが求められ、それを忠実に実践した者のみが高い評価を勝ち得るという実力主義の世界を冷めた目でしか見ることが出来なくなってきたのです。
漠然とそうした気持ちを抱くようになった時期に、次男が夜中に熱性けいれんを起こすという出来事が重なります。その時私は出張中で家を空けており、これ以外のときも帰宅が10時、11時は当たり前という生活を送っていました。そして私が子供を病院に連れて行くことが出来なかったため妻は救急車を呼んで、病院に連れて行きました。そういう経験をしたとき、大げさだと思われるかも知れませんが、もしこのまま離れたところにいて家族が死んでしまうような事になったら一生後悔し続けることになると考えました。
そして家族と共に主を見上げ続けるためにもっともっと教会を中心とした生活に身を置きたいと感じるようになっていきました。
思えば、この一件により私の献身に至る導火線に火がつけられたのだと思います。
さらに昨年9月、祖母が天に召されました。(この祖母は最初にお話しした私の名の由来となった牧師の妻ですが)その葬儀の際に祖父母の元で信仰生活を共にするなどして、今は献身して各地で活躍している霊的パワーに溢れた人たちの姿を目の当たりにし、元気付けられたことを通して具体的に私の中で「主を宣べ伝えよ」という召命感が宿り始めました。
そして、帰省中の2000年最終聖日であった12月31日に出席した母教会である狛江教会で、ルカによる福音書2章22節以下を題材とした「召命感をどれだけ強く感じる事が出来るか。その確信をシメオンのように持つことが出来るならばどれほど幸せか。主が役目を与えられる時がいつ来るかは最後までわからない。」というメッセージを受けて私の献身への思いは一気に加速したのです。
そこでまず妻にこの気持ちを率直に(というよりは恐る恐ると言ったほうが良いかも知れませんが)告げてみたところ、ほんの少し間を空けて「結婚した時からいつかそんな事を言い出すんじゃないかと思っていた。」という予想もしない返事が返ってきました。
これを受けて、私は本格的に献身へ向けての動きを始めたのです。
叔父である東京神学大学出身の牧師に電話で何度かこの思いを相談しました。初めの頃は、恐らく私が一時的な心の動揺でこんな事を言い出したのだろうとしか思っていなかった叔父も、いろいろしつこく聞きたがる私に音を上げてとうとう、「神学をより深く学びたいのであれば東京神学大学しかない。」と勧めてくれました。それを聞いて私もこの大学で御言葉について一生懸命学び、主のみ旨に従って福音を熱く語る者とされたいと強く感じるに至ったわけです。
このようにして私の気持ちは固まっていき、当時の(と言ってもついこの前の事ですが)所属教会であった仙台東一番丁教会の柏木先生にお話した時には、この気持ちはもう全く揺らぐ事のないところにまで来ていました。
さて今、私は多くの神学生たちと共に伝道の第一線に出る日に備えて、石井長老に読んでいただいた御言葉にあるように、「全てを成し遂げて、しっかりと立つことが出来るように、神の武具を身に着け」ようと、自己研鑚に励んでいるところであります。
献身の思いを祈りによって熱く燃え続けさせることと、神学の知識を学び蓄える事によって主の導きのみに従った冷静な判断力を身に着けることの両者を同時に習得していくのが、神学生に課せられた終わりのない課題であり、「おののかず、強く雄々しく」いるための根拠だと信じています。
ローマの獄中で書いた手紙で、遠く離れたエフェソの人々に向けて、パウロは力強く、6章14節以下のように言っています。
「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。」
少し飛ばして、
「また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
霊による祈りと知識の賜物を身に着け、主の栄光をあらわすために進めなくてはならない伝道の歩みはまた、当然ながら主によって与え導かれ、同労者の祈りによって支えられるものであります。
どうぞ弱い僕が御旨に従ってこの学びの時を乗り切り、福音宣教の一翼を担う者として育まれますよう、この教会で祈り支え、送り出していただきたいと思っております。

◎ 讃美歌 448番
◎ 献金
◎ 主の祈り