2004.1.25 柳田洋夫神学生 |
主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。 エレミヤ書18:1〜11 |
これから私がお話しすることは、全然華々しいものではありません。アウグスティヌスの『告白』のようなかっこいい証しができればいいのですが、無理だと思います。何かわかりやすい感動とかエクスタシーのようなものがあればよいのですが、あまりないと思います。しかし最近、私は自分の中で、今まで思いつかなかったことを気付かされたという体験を与えられました。 以下においては、「私の恥は神さまの栄光」というモットーのもと、神さまがこれまで私に何をしてくださったのか、そして今、私に何をしてくださっているのかということについて、自分なりに思うところをお話しさせていただきたいと思います。 エレミヤ書をお読みいたしました。陶工は自由自在に粘土をかたちづくります。何をかたちづくるか、あるいはつぶすかは、全く陶工の手にかかっています。神さまは、この粘土と同じように私たちをいつもその御手の中に置き、昔も今もこれからも、繰り返し私たちを砕き、そして新たに形作られるということ、それが、これから私がお話したいことです。 私は、前の学校にいた頃、将来は国立大学の教員にでもなりたいと思っていました。そして、大学院に進学しました。しかし、次第に行き詰まりを感じるようになり、大学院をやめ、高校の教員になりました。教師としての生活は、それなりに充実していたし、楽しいものでありました。しかし私は一方では、できることなら、論文の一つでも書いて、また研究室に戻りたいと、いつしか心のどこかで中途半端なことをまた考えだすようになりました。そして、もう一度大学に戻ろうと考えましたが、もう研究室を離れて何年か経ってしまった頃でもあり、もう後の祭りでありました。私の望みはそこで断たれました。よく「目の前が真っ暗になったような気持ち」などと言いますが、まさにそのとき、そういう感情を味わいました。自分の人生におけるたった一つの目標が、希望が今ここで完全に潰えた、もう何もかも終わりだ、破滅だと思いました。 しかし、今になって振り返ってみれば、私自身にあまりにも大きな問題がありました。根拠のない、歪んだプライドに私は振り回され、世俗的な立身出世を追い求めていました。自分という器は自分でつくるものだ、そう思いこみ、そういうことがうまくできそうにないと思われる他人を見下していました。私は、自分自身に対して、そして他人との関係において主人公となり、王となり、そして独裁者となろうとしていました。 私はそれまで聖書はしばしば読んでいました。しかし、私はそのときまで、ただ聖書を、そして神さまを、自分のために利用しようとしていました。とりあえず幅広い教養を身に付けておきたい、そのために聖書でも読んでおこう、ついでに、気分の優れないときは一服の精神安定剤として聖書を使わせてもらおう、心のどこかでそう考えていました。私にとって、聖書とはその程度のものに過ぎませんでした。そのとき、神さまとは、私の人生という舞台の端っこのほうに時おり見え隠れする脇役、そんな存在でしかありませんでした。そして、そのとき私は神さまを、自分の欲望というろくろに乗せていました。最もしてはならないことを私は日常茶飯事的にやらかしていました。だから神さまは、そんな私を砕かれたのだと思います。 私たちはできることなら、神さまによって砕かれたりしたくなどありません。砕かれるということには必ず、痛みと苦しみとが伴うからです。だから、神さまに砕かれるということを経験する時、私たちはそれをたいてい、災難としか受け止められません。しかし、時に私たちに災難としか思えないようなことが起こるとき、または、もう破滅でしかない、これで万事休すだ、一巻の終わりだ、としか思えないとき、それはまさに、神さまが私たちを捕らえ、御手の中に私たちを引き戻し、私たちを作り直されているときなのです。 夏期伝道先の牧師先生は、「神さまはしつこい」と言いました。確かに神さまはしつこいお方です。なぜしつこいのかというと、私たちの罪がしつこいからです。しかし、神さまのしつこさは、私たちの罪のしつこさをはるかに越えるものです。たとえ私たちが自分をあきらめても、神さまが私たちをあきらめるということはありません。たとえ私たちが自分を信じられなくなっても、神さまは私たちを信じていてくださいます。それが神さまのしつこさというものであります。
しつこい神さまは、あの手この手で私たちを作り直してくださいます。神さまがこの私に打ったさらなる手は、一枚のポスターでした。 私はいつしか教会に導かれるようになっていました。そもそも私にとって教会というところは何となく敷居が高くて、足を踏み入れにくい所というイメージがあったし、どこにどんな教会があるのかすら知りませんでした。しかし、一度行ってみたいという興味はずっとあり、学生の頃の友人に頼んで近くの教会までその人に連れて行ってもらいました。その友人は、一緒に聖書のことなどを語り合った人で、すでに洗礼を授けられていました。そのとき私はもう30歳を過ぎていました。かなり遅い教会デビューです。 教会に通うようになってからしばらくして、壁に東京神学大学のポスターが貼られていることに気がつきました。そこには「収穫は多いが、働き手が少ない。」という、マタイによる福音書9章37節の御言葉が書かれていました。その言葉は私に語りかけているように思われました。神さまのために働く、よくは分からないけれども、自分がそれまで想像もしなかった生き方が、突然目の前に突き出されたような気がしました。そこから献身までは、さまざまな不安や心残り、いろいろな思いはありましたが、一直線でありました。冷静に、または、この世的に考えれば、仕事をやめても一つもいいことはない、クリスチャンでもない自分の両親を含めて多くの人が悲しみ、残念に思うだろう、洗礼を受けて間もないのに、いきなり献身なんて無理だろう、そもそも生活していけるのか、そういうふうにいろいろ思い悩みました。しかし、神さまは私を半ば強引にひきずってきました。おそらく、私はここまでされなければ、ほんとうに滅びてしまうしかない人間だった、だから神さまはその私を一刻も早く救い出すために私に一見無茶なことをされたのだ、今はそう思います。そしてそこに、神さまの驚くべき恵みを感じるのです。 ある人は言いました。「人間のピリオドは神さまのコンマである。」ピリオドとは文章を書く時の「。」、つまり、言うまでもなく、そこで文が終わるというしるしです。「コンマ」というのは「、」のことです。 私にとって、あの挫折の体験は、そのさなかにあるときは、到底恵みとして受け入れることなどできないものでした。全ては終わった、破滅した、自分の人生はここでピリオド、そう思いました、しかし、今は違います。あの出来事は、コンマであった、終わりではなく、また新たな始まりの合図であった、新しい私が生まれるしるしであったということがよく分かるのです。なぜなら、神さまはそれからも引き続いて私をその御手の中に置き、ついには御言葉を取りつぐ者として立たせようとするまでに私を作り直されてきたからです。あの出来事は、神さまの新たな作り直しであったということがよく分かるのです。あの出来事がなければ、コンマのない文章が決してまともな文章にならないように、私はまさに、生きているのか生きていないのか分からない日々を送り、そして、自らの罪に押しつぶされ、確実に破滅に至っていたことでしょう。 もう一つだけ、ここまで私を引きずってこられた神さまが、今、私に何をしてくださっているのかをお話させていただきたいと思います。 少し前に、母が突然クモ膜下出血で倒れ、手術を受けるという出来事が起こりました。幸いなことに、特に後遺症もなく、間もなく退院することができましたが、体力や気力の回復には時間がかかるとのことで、私も食事の準備を手伝ったりしました。最初は、せめてもの罪滅ぼしと思って張り切って取り組んだのですが、食事の支度が面倒くさいということよりも、なかなか家族とうまくコミュニケーションがとれないことにだんだん私はうんざりしてきました。たとえ家族であっても、何事かを一緒にやるということはいろいろ難しいものなのだなと感じました。同時に、私は両親を心のどこかでもどかしく思うようになっていました。そこには、いつしか自分の両親さえも、あれこれと裁いてしまっている、傲慢な私がいました。 東京に帰って数日たってから、家に電話しました。まず母が出てきました。だいぶ元気になったと母は言いました。そして、風邪はひいてないか、ちゃんと食べているのか、ということをしきりに私に聞いてきました。そして、いつでも帰って来い、待っているからと私に言いました。次に父が出てきて、自分もご飯の炊き方とか料理とか練習を始めたから、こんどお前が帰ってきたら、ご飯を作って食べさせてやるからいつでも帰って来い、と言いました。まったく何のことはない会話なのですが、私には、その父と母の言葉が突然、真新しいものに聞こえました。私が今まで全然気付いてなかった大事なことをはっと気がついたように思いました。 それは簡単なことです。父と母は、いつでも私を待っていてくれていたのだということです。私は、特に献身をしてから、自分をどこかでずっと責め続けているところがありました。自分は一人っ子にもかかわらず、親を捨てて田舎を出てしまった。そして、もう今度は下手をすれば、親の世話どころか、自分の面倒さえ見ることができるかどうかわからない、自分は究極の親不孝者だ、そう自分のことを思っていました。それは両親も認識していたことでした。献身するという話をしたとき、母はずっと泣いていました。こんな役立たずに成り果てた自分など、親はほんとうは嫌いだろう、突然宗教にはまって仕事と親を放り出して家を出て行った、こんな人間などほんとうはもう見たくもないだろう、それは仕方がないことだ、と私は思っていました。 しかし、父と母は私を気にかけていてくれました。私のほうでは不満ばかり言って、裁いてばかりいたその父と母は、この恩知らずの傲慢な私を受け入れてくれていました。そのことを私は突然気付かされました。 同時に、いろいろなことを思わされました。いよいよ東京に出発するという日に、もう体が弱っていてあまり動けなくなっていた祖母が、玄関先まで出てきて、「また帰ってきなさいね」と一言私に言ってくれたこと、そのときのやさしい、おだやかな顔。大工仕事が上手だった祖父が、私が小さい頃、竹馬とか水鉄砲とかいろいろつくってくれたこと。そんなことをあれこれと思い出しました。それらのことを私はずっと忘れていました。 祖父は、高校の教師などをしていたのですが、書斎には哲学者の西田幾多郎の額などが掲げてあり、哲学やら文学やらいっぱい本を持っていました。そして、机の上には「マタイによる福音書」の冒頭の、イエス・キリストの系図を自分で図解してまとめた紙がガラスにはさんでありました。今思えば、祖父は心の奥底では切実に福音を求めていたのではないか、哲学では決して得られない慰めを求めていたのではないか、それであんなイエス・キリストの系図を大事にガラスにはさんでいたりしたのではないか、そんな気もします。 自分がどんな人間であろうと、どんな人間になろうと、父や母は待っていてくれる、愛してくれている、そのことは、神さまがいっぺん私と両親を引き離してくださっていなければ、絶対に分からないことでした。このようなことは、もし、ずっと田舎で親のそばにいて働いていたら、決して分からないことでした。思い付きさえしませんでした。そして、変な言い方になりますが、母が倒れるという騒動を通じて、私と両親とがいわば「出会いなおす」という経験がなければ、分からないことでした。親子というのも、本当にわかりあうには、どこかで「出会う」ということが必要なのではないか、そう思います。そしてその出会いは、私たちが無理に作り出すことはできないことで、神さま以外誰もコーディネートできないところのものであると思います。神さまはこの出来事を通して、私が勝手に作り上げていた、愛に対する壁を打ち砕かれた、そうも言えると思います。神さまは愛というものがどういうものなのかを私に知らせるために、このように教会の外の人をも用いてくださるのだなと思いました。 ここまで、神さまがどのようにして私を砕き、作り直してくださったのか、そして今も作り直してくださっているのかということをお話ししてきました。まだいろいろなことがよく整理できていないままに、思ったことをとりとめもなくお話した感じになってしまいました。しかし、無理に整理することは今の私にはできないし、そのようにすべきことでもないと思ったので、あえて私の経験や思いをナマのまま投げ出すようなかたちになりました。しかし私にとっては、改めて神さまの恵みと導きについて思いをめぐらすまたとない機会となりました。 神さまが神さまでない時がないように、いついかなる時でも、私たちの歩みのひとあしひとあしが、神さまの御手の恵みの下におかれていないという時は決してないのだと思います。
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お祈りをいたします。 天の父なる神さま、あなたは私たちの罪をはるかに越える愛と恵みとをもって、御手の中で私たちのかたくなな心を砕き、あなたの独り子イエス・キリストによって繰り返し私たちを作り直してくださいます。どうかそのあなたの驚くべき恵みを私たちがいつも思い、自らのかたくなさや罪の方ではなく、あなたのみを見上げつつ日々を歩むことが出来るよう、お導きください。 この感謝と祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。 アーメン。 |