「わが主、わが神よ」

ヨハネによる福音書20章24〜29節

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 このヨハネによる福音書の場面は、あと一章が加えられていますが、事実上この福音書の終幕です。それは映画で言えばラストシーンです。
 私は小学生の頃見た、確か白黒の映画でしたが、「シェーン」という映画のラストシーンを今も忘れられません。たいへん感動的なものでした。牧場を馬で去って行くカウボーイ・シェーンに向って、彼を慕う当時の私くらいの少年が「シェーン・カムバック」と叫んで映画が終わるのです。四十年近く前のことですが、今もそのシーンは鮮やかに思い出されます。
 同じように、このヨハネ福音書の記者にとって、このラストは、鮮やかに胸に残っているシーンではなかったでしょうか。そしてこの情景は、私たちの教会の中で、繰り返されている情景ではないでしょうか。

 この場面の前には、主イエスの十字架の死を見て、失望し散り散りバラバラになっていた弟子たちが、一人、二人と主と別れた家に戻って来た。その家に復活された主イエスが現われ、彼らの真ん中に立ち、「平和があるように(シャローム)」 と声をかけられた。そして、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)という出来事がありました。ただ死んだはずの人が生き返ったというのでなく、彼らが主と仰ぎ、この方こそイスラエルを救う方だと望みをかけていた人が死から甦られたのです。その主に目見えた喜びは筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。そして主の「平和があるように」との御言葉は、これまでの彼らの挫折も不安も一遍に吹き飛ばすほどのものではなかったでしょうか。主は戻って来られたのです。

 そしてこの場面はそれに続くところです。それから少し時がたちました。弟子の中で一番遅くトマスが戻って来た場面です。彼は主を見て喜んだという決定的な場面に居合わせませんでした。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)という彼の不在は悔やんで余りあるものでした。彼は異分子であるかのようにこの集団の中に混り合っていました。一方の十人は復活の主イエスに目見え、喜び、信じて満たされています。しかし他方、彼はそれを信じることができません。その二つがこの時、ここに同居しているのです。ある意味でスッキリしない状況です。しかしまたこれがわれわれの現実ではないでしょうか。ある注解者はこの様子をこのように同情的に解しています。「それにもかかわらず、トマスがその交わりから去らなかったのは重要だ。彼は他の弟子たちと同じ経験がなかった。それを求めても得られない。しかし、彼は自分の主に対する信仰を、自分の心の中の考えではなく、体で示した。なぜなら、彼は復活の主と出会ったその交わりから身を引かなかったからだ。そして他方、この交わりは、彼が確信していないにもかかわらず、彼をのけ者にしなかった」と。私もそうだと思います。私たちの教会の現実、あるいは一人一人の信仰を考えても、一方で主を信じて揺らぐことのない場合も、他方、原体験がおばろげで確信が持てない場合もあるからです。
 ほかの弟子たちが確信に満ちて、何とかその喜びを伝えようとして、彼に、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは実にとげとげしく、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)というのがその弁です。
これは疑い深いと言えなくもありませんが、しかしこの言葉はトマスの激しい訴えを表しているのではないでしょうか。自分は最も大事な復活の主と会うという原体験がない。それを求めたい。そればかりではなく、もっと確かに見、その手、指で触れて確かめたい。そういう激しい願いを持ったのではないでしょうか。このような原体験のないトマスのような人が、いかに復活の主に目見え、あずかるかは、教会というものの根本を形造る課題です。これが教会を写し出す情景です。

 キリストを慕い、キリスト教に敬意を抱さながら、決して教会に加わらなかった日本の代表的な一人の知識人の問いかけを私はここで思い出します。
彼にとっての問い、いや信仰の躇きは、どうしてキリスト教信仰は、キリスト個人が喋った十字架の死と復活の体験が、それを信じる人々のものになるのか、あたかも自分が体験したごとくになるのか、そこでその人はキリスト教がわからなくなると率直に述べていました。彼はトマスが他の弟子と同じ体験ができなかったことを嘆く以上の嘆きをもって叫んでいるのです。キリスト教の根本は結局、キリストご自身と同じ体験が自分になければ救いにあずかれないのだと叫んでいるのです。ここに示された問いと訴えに私たちも耳を傾けるべきでしょう。
 一週間がたち再び主が弟子たちのところを訪れました。再び「あなたがたに平和があるように」と。そして出会いの原体験のないトマスの訴えに応じ、
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と。主イエスにとって、他の弟子が与ったと同じ原体験をトマスに与えることはそう難しいことではありません。彼がこれさえあれば、自分は信じられると思っていたことは、主イエスにとってはそれを与えることはそれはど困難なことではありません。主イエスはこのトマスに他の弟子たち以上のものを与えようとされていたのではないでしょうか。それは「信じる者になりなさい」(27節)、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)です。主は見ないで信じることを尊ばれ、それは見て信じるよりも幸いだと仰っておられるのです。これが主が私たちに求めておられる信仰です。
 
どうして見ないで信じることが成り立つのでしょうか。そもそもこの信仰とは何なのでしょうか。キリストはどういう意味で私たちの信仰を求めておられるのでしょうか。確かに私たちは何らかの意味で主を見ることなしには信じることもできません。あるいは、同じように主を見て喜ぶ人々と同じ体験を分ち合うことなくしては歩みが危ぶまれます。しかし深い意味で、見ること、体験すること、つまり主イエスのように十字架に死にそこから甦ることは主イエスしかできないことです。罪を負う十字架の死とそれを滅ぼす復活をされた主イエスご自身と同じように見、同じことを体験することは不可能です。また各人がその主と出会うという体験も各人各様でありましょう。しかしその主を信じることは共通です。そこに信仰の尊さがあります。信仰とは我々がすべきすべての体験を主がして下さったと信じることです。救いはキリストとその御業の中に完成しているのです。信じるということはそれを受け入れ、キリストの内に迎え入れられ、彼と一つとなることです。自分の体験にこだわるのではありません。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と叫んで、主と一つとなることです。主が私のもとに戻って来るだけでなく、私たちこそ全身全霊をもって主にカムバックすることが信仰です。

(1996年洗足教会月報「せんぞく」第4号巻頭説教 橋爪 忠夫牧師)