「復活の主の証し」

ルカによる福音書24章36〜49節

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 
 今日はイースター、主イエスが十字架につけられて死なれ、その三日後に復活されたことを記念する礼拝です。この主の復活日の様子を描いた聖書のひとこまを読んでいただき、説教の題を「復活の主の証し」としました。
 ところで私たちは普段の生活で、真偽が問題になり、より確かさを求めるような場面で、証しとか証明の必要が出て来ます。物事の真理を問う科学や学問の世界では証明や証しがもっとも大切な課題でしょう。そういうことを思い出すとき、人が復活したという証しはそう簡単なことではないと思います。いやそもそも証明は不可能だと言ってよいのではないでしょう
か。ある人は、人間にとってあらゆることは不確かでも、人の死ほど確実なものはないと言っています。人間の多くの経験から言っても、この真理を覆すのはむずかしいのではないでしょうか。しかし、それを覆したのが主イエスの復活です。死よりももっと確かなものがある。死も覆るのだということが起ったのがこのイースターです。それがどのように激しい、世界が覆るほどの日であるか、私たちはもっともっと胸に刻む必要があると思います。そして私たちの貧しい、力ない証しではなく、主ご自身の復活の証しに目を向けるべきでしょう。
 私は皆さんにこのように説教をします。そのためにはよほどしっかりと聖書を咀嚼し、教会とは何かを、礼拝とは何かを捉えていなければなりません。もっともそれはこれでよいというところまでは、とても到達できませんが。しかし特に新約聖書を読む上で、私がたいへん教えられた小さな本があります。それは
「イエス・キリストの甦えり」(A・M・ラムゼー著)です。この本は衝撃的でした。「最初の弟子たちにとって、復活なしの福音とは、単に最後の章を欠いた福音というだけではなく、全然福音というべきものではなかった。…イエスは、彼ら〔弟子たち〕を逆説、当惑、暗黒の中へ引きずり込み、そしてそこに、彼らを放置し給うたのである。イエスが死からよみがえり給わなかったら、彼らはずっとそこに止まっていたであろう。しかし、イエスの復活は、それ以前の死と生涯に、光を投げかけ、逆説を解明し、イエスの言葉と行為の統一を明らかに示した」と言い、「復活こそが新約聖書の真の出発点」であることを冒頭から強調したものです。私は何か目が開かれる思いでこの本を読みました。
 そうであれば、私たちはこの復活日の様子をもっと深く胸に刻む必要があるのではないでしょうか。主のご受難と十字架の出来事と同様にです。

 このルカ福音書によれば、主の復活の日は衝撃と共に明けました。安息日明けの週の初めの日の明け方早く、婦人たちが主イエスの葬られていた墓に急ぐところから始まります。しかしそこには主の遺体はもはや見あたらず、途方に暮れているときに、二人の人〔主の御使い〕が近づき、驚くべき言葉を発します
。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにおられない。復活なさったのだ」(24章5〜6節)と。ここから衝撃が始まりました。それは何よりも確実な人の死という重い動かしようのない岩が揺れ動き出した瞬間です。この婦人たちの知らせを聞いてペトロを初め使徒たちは墓へ走り出しました。そこで見たのは、空洞の墓、死が覆ったということです。そして使徒たちは人の力では理解できない事態に全くの混乱の体でした。それを映し出すのが、次に出て来るエマオ途上へ向う二人の弟子に復活の主が現われた場面です。それは使徒や弟子たちが主イエスの死と復活の知らせにどれほど混乱し、収拾のつかない心境であったか、それを復活の主がどのようにいやし、「心が燃える」(32節)程までに至らせたかを印象深く物語っています。そしてこの物語の中に、すでに「復活の主の証し」が示されています。それが決定的になるのが36節以下の場面です。

 主はエルサレムの使徒たちが集まっていた場所に、夜遅く訪れました。使徒たちは、あのゴルゴダの丘で死に、墓に葬られた何よりも確かな主の死と、伝え聞き、いまだ少数しか接することのできなかった未曽有の復活ということの間で揺れ動き、抑えることのできない動揺の中にありました。そのとき、
「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)。これはヘブライ語で言えば、たったひと言、「シャローム」です。このシャローム、平和、平安とは何と大きなものでしょうか。そこには死を覆すものが潜んでいます。しかもそれは主が彼らの真ん中に立ち発せられた言葉です。しかし、十一人の使徒とその仲間たちはまだ信じられません。「恐れおののき、亡霊を見ているのだ」(37節)と疑いました。彼らの中では、未だ死は覆らず、死の先にあるのは、亡霊のような不確かなものでした。しかも、「平和があるように」と主が言われたにもかかわらず、三日前にはまったく意気地なく、主を見捨てて逃げ去った醜い自分たちの姿がよみがえり、罪責の念に心は波立っていたのでしょう。そのような彼らに復活の主が御自分を証しし、死を覆し、死の先にある復活を確信させたのは次の二つによります
 
ひとつは復活された主が、御自分の手足を見せ、肉も骨もある姿で、『わたしだ』と言われ、食卓にある一切れの焼いた魚を、彼らの目の前でお食べになった39〜43節)ことです。御体を見せ、食卓で食べられた、これは復活の主脚自身の疑いようのない実在を深く印象づけるものでした。それは何の変哲もない平凡なことでありながら、主の復活とその復活者の実在が実に自然なことなのだ、実は死こそ不自然なのだということを印象づける証しです。それは教会の守る聖餐に引き継がれました。
 
もうひとつは、そこで主が聖書を説き明かして彼らに悟らせ、心の目を開いたことです。主の苦しみと死、そして死者の中から復活することを、「必ずすべて実現する」(44節)事柄として、聖書により証ししたことです。目に見える復活の主の御姿と必ずそうなるという聖書の約束、つまり神の大きな計画が、主の復活の揺るぎない証しです。これをしっかりと胸に刻み、これを証しするのが、私たち「主の復活の証し人」です。  

(2003年洗足教会月報「せんぞく」第4号巻頭説教 橋爪 忠夫牧師)