受難節(四旬節、レント)に臨んで

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私達は今、教会の暦で受難節を守っています。

救い主イエス・キリストが地上の歩みをどのような苦しみで終えられたか、またその主にどのようにしたら近づくことが出来るか、これが私達の受難節の大きな課題です。

聖書を通して、その苦しみのお姿を振り返り、その歩みを辿ることは出来ます。しかしそれだけでは充分ではありません。と言うのはあの苦しみは、本来私達が味わうべきものであり、あの姿は、隠された私達の姿を現しているからです

スコットランドの説教家、D・M・ベイリーは説教中に、礼拝堂の外に、宵越しの酒で酔った男が歩いているのを見て、「もし神の恵みがなかったならば、あそこに歩いているのは、D・M・ベイリー、私自身である」と叫びました。

もし私達が、神の前で何の恵みもなく、裁かれたならば、キリストが歩まれた十字架への道は私達が辿るはずの道でした。しかしキリストは私達に代わってその道を歩まれたのです。キリストの十字架の苦しみの姿をみる時、私達には、私達に本来訪れるべき究極の姿が何かということが示されます。しかし、私達自身は苦しむことなく、鏡に映ように自分自身をキリストの中に見ることで許されるのは、恵み以外の何ものでもありません。

使徒パウロは、キリストのうちに自分自身を深く見た人でした。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められた体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」ローマの信徒への手紙7章24節(※)

自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることを行ってしまう、このせめぎあう二つの力に心の奥底まで引き裂かれている姿、そしてその終局は死に定められ、何の希望もない自分の姿を、彼はキリストの苦しみの中に見るのです。パウロは過去に自分が犯した大きな過ちを嘆いて、惨めな人間だ、と述べているのではなく、キリストの救いに与ってなお現実には引き裂かれたままで、その終わりに見えるのは死であることを嘆いているのです。

しかしこのようにキリストを通して、私達が自分を見つめる時、惨めさや引き裂かれたままの状態で終らない、なすすべなく、踞まったままではないかということも明らかです。

7章25節でパウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と感謝の声を挙げています。惨めさのどん底で嘆くパウロが何故突然神への感謝を歌いあげているのでしょう。その根拠はどこにあるのでしょう。

ローマの信徒への手紙8章11節(※)に焦点をあてて考えてみましょう。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」とローマの信徒達だけでなく、私達にもパウロは語りかけます。少し複雑な文章ですが、結論ははっきりしています。前章の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」という節が対比しています。この転換は何によって起こったのでしょうか。パウロがこう述べる背景には、主イエスのどのような現実があったのでしょうか。

ヨハネによる福音書20章()で復活したイエスは弟子達に現われ「あなたがたに平和があるように」と言われました。「・・・・・そう言ってから、彼らに息を吹きかけて・・・・」息というのは、霊とも訳せます。彼はこのような場面を思い起こしているのではないでしょうか。弟子達は十字架に死んだ主イエスを重い悲嘆に暮れ、同時にユダヤ人を恐れて、厳重に戸に鍵をかけていました。しかしそこにも、復活された主イエスは、何の抵抗もなく入って来られたのです。それは単に建物の扉ではなく、どんなに固く心を閉じ、どんなに人に見られたくない醜いものがあっても、主イエスは心の中に自由に入ってこられるということではないでしょうか。そして、平和があるように、命があるようにと息を吹きかけられる。キリストの霊をお与えになるのです。「聖霊を受けなさい」と。復活の主が入ってこられることによって、死せる体をもった、惨めな、罪を抱えていた弟子たちは全く様変わりしてしまいます。更にヨハネはそこにいた十人の弟子達だけでなく、疑い深いトマスについても記しています。彼ほど復活のキリストを受入れまいと心を固く閉ざしていた人はいなかったでしょう。しかし、それをも打ち破って、キリストが入って来られ、トマスに対し、復活の主として平安をお与えになったのです。

私達の内側にキリストが入ってきて、しかも心の真中に宿ってくださる。復活の主である聖霊は私たちの外面を変えるのではなく、内面の惨めさや、神に逆らう罪から開放して下さるのです。

確かに私たちはキリストが内にお入りになってもなお、内外に色々な制約や拘束を持っています。しかし復活者イエス・キリストの霊が内に住んで下さることが、私達がどんなに惨めであっても、神に感謝できる拠所なのです。”神に感謝します。わたしたちの主イエス・キリストのゆえに”なのです。「死ぬはずの体をも生かしてくださる」からです。

私達に共に住んで下さるキリストと復活者の霊が与えられていることは確かです。しかし私たちは、このことを聖書を通して一層確かなものにしなければなりません。

それは私達が惨めであり、望みがないという現実は、否定しがたいことだからです。わが内に主がおられることを、確かにするためには、聖書の中に、私達の仰ぐ神を本当に信じて見出すことがなければなりません。そうでなければ一瞬の泡のように消えてしまうでしょう。

ローマの信徒への手紙8章11節をもう一度読んで下さい。ここに働いているのは、ただ霊のキリストだけではありません。それぞれの位格(ペルソナ)がどう分けられるかは、微妙なところですが、イエスを死者の中から復活させた方である父なる神、その方によって復活されたイエス・キリスト、そおして復活させた方の霊、この父、子、聖霊なる神が一体に働いて、大いなるみわざが進められています。私達の死ぬべき体が、生きた体に変わるのです。

パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)と述べています。

主のみ苦しみは、私たちのための苦しみです。主のみ苦しみを辿りながら、この死せる身が生かされる道をご一緒に歩もうではありませんか。

(洗足教会月報「せんぞく」1999年第3号巻頭説教
「我が内に、主いませば」 橋爪忠夫牧師より)

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※ローマの信徒への手紙7章24節 もどる

内在する罪の問題
では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
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