「頭を上げよ、身を起こせ」
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ダビデの詩。賛歌。
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今朝与えられた詩編24編は、主なる神にささげるほめ歌です。この詩は、栄光の王なる主が聖所に入れられることを歌っています。4節における「主の山」とはシオンの山であり、「聖所」とはエルサレムの神殿のことです。そしてこの詩は、主なる神の玉座である「神の箱」が聖所に担ぎこまれる場面を歌ったものとも考えられます。この詩には、戦いの勝利を祝い、神殿の門へと凱旋するイスラエルの民の、喜びに満ちた祭りの記憶が反映しているのかも知れません。 イスラエルの出陣の時、「神の箱」は戦場に担ぎ出されました。神の箱には万軍の主が座しておられます。神が共にいてくださいます。そして敵を圧倒し、イスラエルに勝利をもたらしてくださいます。勝利の後、神の箱、聖なる箱は聖所に凱旋します。すべてが喜ばしく、すべてが満たされていた、そのような時をイスラエルの民は共に過ごしたことでしょう。 これは遠い国の、古い昔の出来事ではありません。このほめ歌は、今ここに集められた私たちが共に歌い、聞くべきものです。なぜなら、イスラエルの神は、この世界のすべてのものの造り主であるからです。そして、この神は、昔いまし、今いまし、とわにいます主なる神であるからです。今ここの礼拝の場へと、そして私たちひとりひとりの魂へと神は凱旋され、入城されます。私たちはイスラエルの民とともに、その輝かしい主なる神の御業をほめたたえるのです。
この世界は誰のものでしょうか?強大な政治的または経済的力のものでしょうか?それとも、破滅への恐怖によってこの世界は支配されているのでしょうか?そのどれでもありません。 私たちは詩人とともに歌います。1節「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、すべて主のもの。」この世界は主なる神のものです。私たちがこう歌うことは、主なる神以外のもろもろの力がうごめくこの世界に対する大胆なプロテスト、反抗であり、そして真の連帯への大胆な挑戦でもあります。 この世界が主なる神のものであるわけは、2節において、はっきりと示されています。「主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」ここでの「大海」や「潮の流れ」というのは、混沌の象徴です。古代の人々は、この世界を、大きな海に辛うじて浮かぶ小さな板切れのようなものと想像していたようです。「大海」や「潮の流れ」とは、世界の存在を脅かす混沌でもあったのです。しかし、神はその混沌と戦い、打ち破られました。「地の基を置き」「世界を築かれた」というのは、神が混沌に勝利され、混沌を支配されたことを示しています。世界の創造とは、混沌との戦いにおける神の勝利でもあるのです。だから、この世界が、今ここに存在し、そして私たちが今ここに存在しているという事実自体が、主なる神の大いなる勝利と栄光を証ししている、そうも言えます。主は創造の戦いにおいて混沌に勝利されたゆえに、この世界の悪をも圧倒し、私たちを義とし、救われる勝利者としてこの世に来られます。だからこの世界は主なる神のものなのだと、私たちは高らかに歌うことができるのです。
さて、この詩は一つの問いを提出しています。3節「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。」その問いに対する答えはまずこうです。4節「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。」私たちは果たして、「主の山に上り、聖所に立つことができる」資格を持っているでしょうか?否、と言わざるを得ません。私は資格喪失者であり、聖なる山の入場チケットを手に入れることは無理だと思わされます。私たちの手は潔白ではなく、私たちの心は清くなく、さまざまな偶像崇拝と偽りへの誘惑に引き裂かれているからです。神に向けて開かれるべき手が、敵に向けて握りしめられ、神に向けて高く上げられるべき心が、カインのごとく顔を伏せてうつむいている。私たちは実にしばしばそうであります。 しかし、詩編はここで私たちに、「あきらめろ、お前には無理だ」と言っているのではありません。誰が聖所に立つことができるのかという問いと答えは、試みや裁きというよりは、私たちへの招きとして与えられています。「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。」この問いに対する根本的な答えは、6節にあります。「それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」私たちが真に問われている事柄はこうです。「あなたはほんとうに主なる神を求めているのか。あなたは主なる神の祝福と恵みにほんとうに飢え乾いているのか。」そして、主を求め、主なる神の御顔を尋ね求める人、そのような人を主は祝福し、恵みをお与えになると御言葉は告げています。 主イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」(マタイ5:6)「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)主イエスが人間について設けられる区別があるとすればそれはただ一つ、主を求め、飢え乾いている人間とそうではない人間です。主イエスが門を開いてくださるのは、主なる神を、そして主なる神の祝福を求め、飢え乾いている人間に対してなのです。 私たちは、キリストの御手に導かれ、神の恵みのうるわしさによって清められます。7節「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。」この賛歌を共に歌うとき、私たちは自由な者とされています。栄光に輝く王、主なる神に向けて、隣人に向けて、そしてこの世界に向けて、私たちは自由です。私たちは頭を上げ、身を起こすことが出来ます。私たちは心の門を開くことが出来ます。そこから栄光の主は入られます。 私たちは心を開くことに対して臆病です。何かに対して心を開き、信じようとするとき、そこにはいつも、傷つくかもしれない、裏切られるかもしれない、という恐れがあるからです。しかし、恐れることはありません。イエス・キリストはそのような私たちのためにこの世界へと来られ、傷つき、血を流してくださいました。私たちの傷は主イエスの傷によって癒され、私たちの涙は、主イエスの涙によって拭われます。 主なる神は、私どもの心の門の前に立たれ、門が開かれることを求めておられます。栄光の王、万軍の主である神が、自ら主イエスにおいて、その門を私たちに向けて開かれています。その門は決して閉じられることはありません。この地上にある誰もが、神のいのちに連なることが許されています。だから、私たちもそれぞれの心の門を、恐れや疑いとともにではなく、全き信頼と喜びとともに開くことが出来るのです。
「栄光に輝く王とは誰か。」8節と10節において、御言葉は私たちに二度問いかけます。私たちは答えます。「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」、「万軍の主、主こそ栄光に輝く王。」ここで私たちが同時に問われているのは、「あなたは誰か」ということです。私たちはそもそも何者なのかということが問われています。私たちは、この世界を創造された主なる神こそが栄光に輝く王であると告白する者どもです。この世のさまざまな有形無形の偶像ではなく、私たちの救い主イエス・キリストの父なる神のみが栄光の王であると告白し、断固として恵みの光の中を歩む者どもであります。そのような私たちは、主の清さの中で清くされ、主の信実の中で信実な者とされ、主の豊かさの中ですべてを与えられ、主のいのちの中で生かされる者どもであります。
今朝与えられた御言葉について、もしかしたら心のどこかでこう感じている方もいらっしゃるかもしれません。…昔のイスラエルの民は本当に心から感動しつつ神さまを賛美できたのだろうが、自分はそこまで感激に胸を打ち震わせて詩編を読んだことなどあまりない。自分はほんとうに神を求め、神に飢え乾いている人間なのだろうか、それもよくわからない…。そんな思いを心のどこかで感じてる方もいらっしゃるかもしれません。 ルドルフ・ボーレンという牧師がドイツにいます。彼は、あるクリスマスの季節に、「こころが重くてつらい思いをしている人々」に向けて、説教をしました。「こころが重い人々」というのは、賛美の歌声が響いているのに、素直に喜べない人々のことです。逆に何となく不愉快になり、賛美が一つの抑圧、重荷になってしまう人です。ボーレンは、そのような「こころが重い人」とは、自分自身のことでもあると告白しています。彼には重いこころの病に苦しむ妻がいました。彼はまた、そのこころの重苦しさとは、現在のこの世界そのもののありようでもある、と言います。「私どもは、賛美や、感謝や、喜びということを学びそこなっている」ボーレンは、そこまで言います。 しかし、彼はこう言います。「神は、クリスマスをもう一度引っ込めるようなことはなさいません。インマヌエル、<神がともにいてくださる>ということを否定することはできないのです。…人間は人間であることを止めることができます。非人間的人間になることが出来ます。しかし、神は愛であることを止めることはできません。」 私たちはともすれば、自分の<重い心>や<不信仰>を重大なものと考えがちです。時として、主なる神に向けて、頭を上げ、身を起こすことのできない自分自身の姿のほうを何か重大なものとして考えてしまうことがあります。しかし、そのような私たちのために、神は人となってくださり、「インマヌエル」のお方として私たちとともにいてくださり、そして、私どもに全てをお与えになりました。そのことこそが圧倒的に重い事実、真実なのです。 私たちは、暗闇の中にあっても、ひとりではありません。私たちが神さまに対して無関心だったときがあったとしても、神さまが私たちに対して無関心でいらっしゃったときはありません。私たちが自分自身に絶望していても、神さまが私たちに絶望されるということは決してありません。いついかなるときも、そこに、揺るぐことのない方が共にいてくださいます。愛の神、愛でしかありえない神が共にいてくださいます。
今朝与えられた詩編をはじめとして、聖書には「栄光」という言葉が何回も出てきます。この「栄光」という言葉は、もともとのヘブライ語においては、<重い>という意味合いをもつ言葉でもあります。「主こそ栄光に輝く王」、私たちがそう歌うこと、それは、主なる神こそが<重い>お方、大切なお方であるということを認めることであります。私たちが重い心から解き放たれるのは、主なる神がのみが<重い>ものとされるときです。他の何ものでもなく、主なる神のみがほんとうに<重い>ものとされるとき、私たちははじめて自由にされます。そして、いついかなるときであっても、栄光の神へ向けて頭を上げ、身を起こすことができます。 私たちは今、レントの時を迎えました。しかし、レントとは、何となく下を向いてうなだれていなければならない、そのような時ではありません。レントとは、主イエスの十字架によって私たちに与えられた主なる神の愛と恵みに、それのみに、頭を上げ、身を起こす、そういう時期であります。
私たちキリスト者の幸せとは、たんに憂いや煩いがなくなるということではありません。その憂いや煩いのただ中にあっても、いや、そのただ中にあってこそ、神のほめ歌を歌うことができる、それが私たちの幸せです。それは、神のみが<重い>お方、主なる神のみが栄光あるお方であることを私たちが受け入れることによって実現されます。 自分の<重いこころ>ばかりにいつまでもこだわり、それを重大なものと考えることは、もうやめましょう。それは、正しいことでも美しいことでもありません。逆に、最も深いところから、最も徹底的に人の魂を破壊する偶像崇拝になりかねないことです。私たちは、いついかなるときであっても、主なる神に、そして神の愛される隣人に向けて頭を上げ、身を起こすことが出来ます。そして私たちは断固としてそうする者どもなのです。 栄光の主が門の前に立っておられます。待っておられます。今こそ、私たちの心を、私たち自身を、栄光の主を迎え入れる凱旋門にいたしたいと思います。
お祈りをいたします。 天の父なる神さま、御名を賛美いたします。この世界を創造された、あなたの大いなる愛によって、今こそ、私たちのこころをあなたに向けて開くことを得させてください。私たちが生きるにも死ぬにも、あなたのみを栄光の主として讃え、いついかなるときにも、あなたに向けて頭を上げ、身を起こすことが出来ますように。あなたへの賛美が、この世にあまねく響きわたり、この世がほんとうの慰めを知ることができますまで、あなたが豊かに守り導いてくださいますように。 この感謝と願いを、あなたの御子、尊き主イエス・キリストの御名によって、御前におささげ致します。 アーメン。
2005.2.13 洗足教会主日礼拝説教 柳田洋夫神学生
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