洗足教会の婦人伝道師 (大正・昭和の時代)
 

洗足教会の歴史の中に残された、婦人伝道師たちの個性豊かな活動の足跡を記して、教会が善き指導者を与えられてきた恵みに感謝したい

(文中 敬称略)

高橋 久野

 

  高橋久野は1871(明4)年新潟の佐渡で生まれた。生家は造り酒屋を営み、兄は町長や県会議員を勤める裕福な家系であった。12、13歳で分家の従兄弟又次郎と婚約。又次郎は漢学者であり、学問を好み、思索家であった。彼の勧めで1886(明19)年に14、15歳頃に上京、明治女学校に入学した。当時全国の女性にとって憧れの学校であった。明治女学校には「キリスト教思想はあっても、信仰は無かった」と、同年代の羽仁もと子が述べているが、久野の信仰は、富士見町教会(当時一番町教会)に通い、植村正久より直接指導を受け、育まれたのである。
 

その後、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進み、1892年21歳卒業の年に植村より洗礼を受けた。佐渡で又次郎と結婚し小学校の訓導の職につくが、2年半位の結婚生活の後、夫は死去する。その時の久野の悲しみは、墓石に「…号泣す」と刻まれているとのことである。

その2年後には再度上京して、青山学院女子部の国語教師となり、その後20年間勤めることになる。一番町教会に出席し、献身的な奉仕を続けた。1902(明35)年には青山教会の設立に貢献した。

更に40歳を過ぎてから、植村の薦めで東京神学社へ入学した。青山学院の職は辞した。同じ頃一番町教会は富士見町教会と改称し、教会の献堂式が挙行されている。1913年42歳で卒業し、富士見町の伝道師に就任した。良家の子女の家庭教師などをしながら、家庭訪問や病人の見舞などの奉仕を行った。当時佐渡の実家も諸事情により、資産全てをなくすという状況であったため、援助は受けられなかったと思われる。

1913年4月に設立された「婦人伝道会社」により、その後台湾、朝鮮、満州へ派遣され、またアメリカ西部の邦人伝道のため2度渡米している。

1923(大12)年52歳で教師試補の准充を受けた。富士見町教会の婦人たちにより洗足の地域に伝道が始められ、月2回土曜日の夜、植村が出張して集会が開かれるようになった年である。久野は翌年53歳で、日本基督教会試検に合格、「大会」で承認を受けた。植村が急逝した1925年土曜学校は日曜学校となり久野はその責任者となる。また「富士見町教会・洗足伝道所委員会」最初の委員7名の1人であった。「伝道教会設立以前の伝道所時代に、すでに次のように受洗者、転入会者があったことは、一同がいかに伝道に熱心であったかを示している」(『洗足教会五十年史』)。この氏名の中に、久野の養子、高橋恭次郎の転入の記録もある。

1933(昭8)年62歳で、佐渡伝道教会の主任伝道師として迎えられた。明治期に盛んであったが大正末期頃から振るわず、教師派遣も困難になっていた佐渡伝道に使命を覚え、招きに応じたものであった。12月5日按手礼を受け、ここに婦人牧師が誕生した。佐渡での伝道は困難を極める中、島中くまなく駆け巡り伝道に献身した。「佐渡の伝道は多難に候も、幸い二、三確実の信者あり、有力な求道者ありて各所に恵まれ居り候。尚一層の忍耐を以って、訪問と農村への伝道を努めたく…というような伝道旅行にも堪え得る健康を与えられ喜び居り候。云々。」(「福音新報」)

70歳のとき、高齢を理由に牧師を辞任し、その後は養子恭次郎の看病のため台湾に渡った。そして1944(昭19)年12月8日台北で看取る者もなく73歳の生涯を閉じた。
 当時の女性として、最高の学問を受け、この世的にも多くの可能性を備えていたにもかかわらず、大きく光を当てられることもなく、ただ伝道のために捧げたキリストの僕としての生涯であった。

 

橋本 ナホ(1948.4〜1949.4在任)
 

1909(明42)年、久留米で生まれた。父は小学校長、中学教師、町長、鉱山会社専務などを歴任した。母は東京女子高等師範学校を卒業し、結婚後も一貫して女学校の教師をして4人の子女を生み、育てた。後半生は福岡女学院教師であった。先妻の子ども2人を含め、6人の子ども達はいずれも教育の世界に生きた。立澤ナホは津田塾専門学校を卒業し、福岡の組合派の福岡市警固教会で受洗した。


1934(昭9)年、橋本 鑑(かがみ)と結婚。夫は病弱で経済的に不安定な伝道者であった。悪戦苦闘の末に自分も病に倒れた。その中で、第一子を死産、続いて第二子を生後五ヶ月で失った。子供を二人とも相次いで亡くしたあげく、1943(昭18 )年3月、結婚生活9年足らずで夫、橋本 鑑を天に送った。


その年の6月29日、4月に開校したばかりの日本基督教女子神学専門学校に入学して、渡辺善太先生の指導をうける決心をした。夫の死とともに「この時、私は世に死んだのであった」「そして、私が鑑に続こう」と決心し、橋本 鑑先生の奥様から、橋本ナホ牧師へと、ただ一筋に精一杯に生きた。


夫の死後まもなく上京して神学校に入学することは、橋本家の長男の嫁という立場からは困難を極めた。


しかも、34歳で学問を始める年齢の限度を感じつつ、若い学友に伍して、なりふりかまわず激しく勉強し、先生に食い下がる姿もあった。クリスマス近くになると毎朝、イザヤ書の主降誕の預言をヘブライ語で大声で暗誦していたと、同居していた家族が語っている。
「婦人伝道師の本務は訪問やスリッパをそろえることにあるんじゃない、伝道の中心は説教と聖書研究にある」という渡辺善太先生が、校長として心魂をかたむけた女子神学校は、特殊であったともいえる。共学の神学校で男女対等に扱われるのではまだ足りない。女子は社会的に差別されて育ってきたのだから、対等以上に勉強しなければ対等にならない。ドイツ語、ギリシャ語、ヘブライ語、哲学、歴史学…そして有名な渡辺式説教術の訓練。


1948(昭23)年3月、5年間の神学校生活が学校の閉鎖と共に終わり、4月から日本基督教団洗足教会の伝道師に就任した。同時に聖学院高等学校聖書講師となる。4月から3ヶ月間は仁田 裕伝道師と伝道師が2人になった。柏井光蔵牧師は、当時、教団の副議長という要職にあって多忙の最中であったが、新任伝道師が開拓伝道を開始する意思を申し出たとき、全面的援助を惜しまなかった。短い時間での伝道所立ち上げの準備のため、洗足には腰が落ち着かないままで辞することになった。


洗足における婦人伝道師第一号の思い出を「落ち着いた、とにかく明るい感じの方だった」と、まだ小さかった柏井 創牧師は語る。赴任後の子供たちへの第一声は、「元気に挨拶してくれて、嬉しかった!」であった。


洗足へ赴任した翌年、1949(昭24)年5月、世田谷区用賀に住む兄の家の一室で、用賀伝道所を誕生させた。伝道所はやがて2年後の8月に用賀教会となった。洗足教会出身の高森 昭牧師もよき同労者として支えた。


橋本牧師は、教区や教団の仕事は教会の仕事に差し支えない程度にと控えていたが、婦人の問題に関しては積極的に参加した。アメリカ、沖縄、韓国など教会婦人の主にある交わりのため、教会を留守にして飛び回った。また、引退婦人教職のためのホーム「にじのいえ」建設運営に尽力した。1975(昭50)年10月の聖日の夕方、若い会員の婚約式の終わりの賛美歌を歌いながら突然倒れ、「頌栄、頌栄」の二言を呟いただけで、意識がもどらぬまま、天に召された。65歳だった。

 

別所 現子  ( 酒枝 現子 )(1949.4〜1953.8在任)

別所(当時)現子伝道師は、橋本ナホ伝道師が、洗足を去られたあと、時を置かず後任として洗足教会に着任した。両伝道師は女子神学校の同窓であった。当時、柏井光蔵牧師は教団の仕事にご多忙であり、橋本伝道師は開拓伝道開始の準備に入っていたので、実際には前年の9月から別所伝道師が仕事を手伝っていた。

1918(大7)年929日、東京、麻布のお生まれ。救世軍の士官であったご両親の一人っ子。青山学院をご卒業。十代で信仰告白。青山学院を卒業後、救世軍本部の財務部で働いた後、女子神学校へ進まれる。この女子神学校は渡辺善太先生が責任者として、昭和18年に田園調布に開校された。昭和23年には東京神学大学として男子と共学の教育機関になることが決まっていたので、入学3年後には閉校が決まっていた。青山学院神学部の女子教育は、草履を揃えることや、家庭訪問の心得ばかりが中心だったのに比べ、渡辺先生は「説教のできる伝道者を育てる」ことを中心にされ、厳しい女子教育に使命を感じておられ、渡辺善太の私塾のような雰囲気があった。「男女に召命の別はない、草履とりにならないように、女子はいっそう厳しく勉強せよ。」橋本先輩は入学の経緯からクラスの急先鋒であった。みんな橋本先輩を目標にして勉強した。この間に、別所神学生は父上を亡くされ、母一人、娘一人の暮らしになる。

渡辺善太先生の教えの特徴のひとつは説教術の特訓であった。「伝道者は落語や講談を聞いて聴衆を捕まえる術を学べ。」「聴衆が大口をあいて笑っている口の中へ、御言葉をポーンとほうり込む。口をあけさせる術を学べ、路傍伝道に立つものがぐるぐると山手線のような話をしてはならない。」渡辺先生ご自身の名説教の数々が、その良いお手本だった。

田園調布から東洗足までは電車の乗換えがなかったので、洗足教会へ派遣された神学生は栗原千鶴ほか何人かいた。別所伝道師の赴任も田園調布から近いという理由で決まり、母上と共に教会に住まわれた。

まだ20歳代の伝道師は、まず、青年会に影響を与えた。男子青年会には、カルヴァンの「抵抗権」という言葉を教えていただいたと記憶している人がいる。女子青年たちは、若くてスーツが似合う凛とした教師に憧れたという。日曜学校、土曜学校、婦人会、青年会、奏楽、と若さいっぱいの伝道と奉仕の働きであった。

なかでも特筆すべきは、日曜学校の週日保育として昭和24年から45年まで続き、洗足教会史に残る「洗足教会幼児学校」の開設である。卒業生449名を数えた20余年間の記録は、『洗足教会七十年史』に残されているが、教会におけるその在り方の基本には、開校当時の別所伝道師の青写真が生きていた。

ひとつは母親たちにも母親教育を受ける機会があったこと。婦人会とのリンクもでき、名高い教育関係の講師を招いて(例えば山室民子、植村環、村岡花子、キュックリッヒ、高崎能樹など)の講演会は、母親たちにも益するものであった。その結果、母親たちが自主的にまとまってきた。この教育活動が伝道につながることが、大きな希望であった。

聖書研究会を開き、受洗に導いたのは牧師であったが、母親教育がその方向に心を向けさせることができたことは、大きなことであった。伝道師と牧師の連携プレーは確実に実を結んでいった。伝道師は時間があれば、よく家庭訪問をした。19504月の総会で決議されたことのひとつが、訪問伝道であった。

幼児学校が軌道に乗り始めた頃、別所伝道師は、病に臥せる母上との生活維持のために教会を出ることになり、伝道の一線から引くことになった。しかし、この貴重なタラントは、やがて母上を天に送った後、再び大きな働きのために伝道の道に復帰する。早稲田大学経済学部教授であり、「キリスト教待晨集会」を主催なさる酒枝義旗(よしたか)教授とのご結婚。伝道のために力強い支えとして存分に働いた。

(婦人会だより「シャロン」111号掲載記事です。)