洗足教会年史

教会は時々、1本の木にたとえられる。木は幼い苗木で植えられ、養いを受けながら根を張り、枝を伸ばし、やがて自らの力で成長していく。

使徒パウロは、自ら生み出したコリントの教会を同じように1本の木を思い浮かべながらこう語る。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Tコリント3章6節)と。彼は現に、ある程度大きくなったこの教会が、何に由来し、何によって育てられたかを振り返らせ、今も昔もそれらを通して働いたのは神であることを明らかにしている。

洗足教会という木もまことにそのとおりである。この教会にも植え、水を注ぐ人々がいた。まずそのパウロの役目を果たしたひとりは、日本キリスト教会富士見町教会植村正久牧師であった。植村牧師の思い出を、わが教会初代牧師・村上 治は次のように記している。

[植村先生は]教会における婦人の力をお認めになり、米国リフォームド教会では激論の末、1979年に漸く婦人牧師をおく事になった程であるのに、半世紀も早くから富士見町教会には婦人長老をおき、かつ婦人伝道会社を設立して、教会の働きに婦人の力を大いに発揮させた。・・・先生は市内各地に教会を生み出された。下谷、市ヶ谷、中渋谷、青山、千駄ヶ谷、大森、白金などがそれである。先生御逝去の2年前1923年に洗足教会設立の計画をなされたが、それも夫人たちの協力によられた。関東大震災の年に漫画家北沢楽天氏夫人いの子姉宅の応接室に、正則英語学校長斉藤秀三郎夫人とら子姉、東京電気局長棟居喜九馬氏夫人みち子姉、河上邦彦氏夫人わか子姉と北沢夫人の4名を集め『あなた方が洗足に伝道を開始することに賛成なら伝道をはじめるが、その気持がないならやらない。どうですか』と問われ、4夫人とも賛成と答えられたのが伝道の始めだと北沢夫人から私は聞いた。(富士見町教会100年文集・年表1987年)

植村は賛成を得るや、早速、洗足教会という名の苗木を植え始めた。2月頃より月2回土曜日の夜に出張して、戸越の加藤長太郎氏宅で祈祷会を開き、さらに4月頃より毎土曜日午後、土曜学校(今日の日曜学校)も開くようになり、当時の富士見町教会の婦人たちを中心に、幾人もが奉仕した。彼女達は文字通り、洗足教会に水を注いだ人々であった。1923年9月の関東大震災後も、その植え、水を注ぐ働きは続けられた。この年12月の植村の説教「篩(ふる)われて大命を奉ず」の1節を引用する。

「今帝都の復興問題のみならず、われらの教会においてもこんなバラックの会堂で礼拝するような次第である。確かに復興問題がある。ただしこの復興事業に精一杯力を尽くすことは『立ち返りてのち』であらねばならぬ。・・・各自悔い改める必要がある。改心の必要がある。求道者だけでなく、古参は古参だけ改心の必要が多くある。」が結びの部分である。植村は自ら木を植え、水注ぎに古参者を鼓舞した。そして彼は1925年1月に巨木のように倒れた。洗足教会の苗木の時期は、このように植樹する母体の危機なしには語れない。植村の最後の開拓伝道となった洗足教会は、富士見町教会の比較的古参者たちがアポロ役を引き受けた。1930年12月14日に、洗足伝道教会が設立されるまでの経過は「洗足教会の歩み―1960年」と「50年史」に譲る。

ただしここで、創立者である植村と彼が指導した富士見町教会、さらには日本キリスト教会についていくつかを記そう。植村はいわゆる摸洛公会(1872年)の出身であり、それを起点とした日本基督教会と共に育った伝道者である。この日本基督教会は、主にアメリカの長老教会系、改革教会系の宣教師たちの指導にあり日本プロテスタント中、最も有力な、また組織的な全体教会を形成した。他に有力だったのは日本組合教会と日本メソジスト教会である。この日本基督教会の特色は、一言で言えばその底流に、「福音」と「教会」を結びつけて伝道することにある。それは大筋から言って、その流れの端緒となる16世紀の宗教改革者ジョン・カルヴァンの線に沿うものである。18、19世紀のアメリカの宣教師たちの影響を受けて成立した日本の多くの教会は、福音と個々人の魂に訴えるという伝道に専念してきた感が強い。しかし、植村やその後継者たちは福音を形あるものにする教会をその視野の中に置いていた。1890年の日本基督教会信仰の告白や植村門下の後継者(逢坂元吉郎、熊野義孝)らが、真剣に教会を視野、いなその拠り所としていたことによってもそのことがわかる。カルヴァンの基督教綱要は構成の上でT・神、U・キリスト、V・聖霊、W・教会で結実する。植村も、歴代の洗足教会の牧師たちも、この線に沿っている。それが改革教会の精神であり、それが改革教会の大きな特色であろう。しかも改革教会は植村がそうであったように実に熱心に、その拠って立つ福音、キリストへの信仰が同じであれば、合同を願うエキュメニカル(教会1致を望む)なものであった。彼は2度、組合教会との合同を試みて成就できなかった。

これらが洗足教会の源流にあるものである。 

1930年に洗足伝道教会設立を果たした本教会の歩みを素描しよう。植えられた木は確実に育って行き、枝を伸ばし、その幹に年輪を加えて行った。ここには今日に至る70年の歩みを世代ごとの年輪にたとえて、5期に分けて時代区分を紹介し、この教会の歩みの理解の1助として提供したい。

草創期(1923〜1930年)

独立期(1930〜1941年)

教団合同期(1941〜1969年)

苦難と再建期(1969〜1995年)

転換期(1995〜現在)

よく教会によっては牧師の交代を持って時代の区分をする。それには相応の理由があると思えるし、本教会の場合もそれが可能である。1928〜38年の村上 治牧師、1938〜67年の柏井光蔵牧師、1967〜1995年の北久保勝也牧師1995〜現在の橋爪忠夫牧師の4期に説得力をもってはっきり区分できる。しかし洗足教会の受け継ぎ、歴代の牧師たちが大切にしたのは教会を重んじ、教会の形成を中心に置く行き方である。そうであれば、教会的な意味で大きな年輪で時代を画する方がふさわしいであろう。

草創期は、伝道教会設立1920年まで、独立期は日本基督教会の1つの自給教会(1935年)までとその内実形成の時期で、村上、柏井に渡る。1941年に教団は太平洋戦争開戦を前にして、34の教派が合同する。これは世界の教会の歴史上、未曾有のことであった。本教会は戦時下、また戦後時代、柏井牧師の指導のもと合同教会の中で、かなり自主的に伝道と教会形成と進めた。柏井牧師が戦後の教団の中で枢要な立場にあったことは内に外に本教会にも影響があったことであろう。1967年に北久保牧師が長崎古町教会より本教会に着任。まず大きな懸案は戦災を免れた会堂の改築、そして69年以降の教団紛争の嵐に会うことになる。着任して間もない牧師はこの問題に苦悩した。また同時に長老をはじめ教会全体もその立場を曖昧にすることは許されなかった。伝道熱心な北久保牧師にとって教勢の低下は耐えられぬ苦痛であった。しかし、このいわば試練期に、本教会の立つ土台も固められた。苦難と再建期は、この試練から再建の期間である。1980年ころから道が定まり、充実期を迎える。と同時に教団内の教会としてその充実をいかに他の教会や伝道のために役立てるかが課題であった。そして1995年頃から牧師交代とともに高齢化の波も静かに波及し、種々な意味で世代の交替が大きな問題となって来た。それが1995年で1応の区切りとして、転換期と銘打った理由である。それぞれの内容については「洗足教会の歩み―1960年」、「50年史」と「60年史」に譲る。 

この70年史に記したのは1990年から1999年の10年間である。これは時代区分から言うと再建期の終わりと1995年以降の転換期の始めである。

この時期の主要な課題については、後に年度毎に記されているが、ここでは3つを挙げて、洗足なる木の様態の、この時期を知るポイントとして欲しい。(1)牧師の交替、(2)長老の交替、(3)今後の課題の3つである。

(1)牧師交替は、長期の牧会が続いた、しかも恵まれた本教会にとっては1大事であった。具体的には北久保牧師から橋爪牧師への交代である。後に示すように、それがすこぶる円満に運んだ。それには種々な要素がある。北久保牧師70歳、橋爪牧師50歳の差であるが、両名とも1985年に始まった改革長老協議会のメンバーであり、教会形成に対する志を同じくしていた。何よりも礼拝重視が洗足教会の伝統であり、それがなにの差異もなく貫かれた。(2)長老たちや教会員の世代交替もこの時期には長老教会として大きい。まず役員会は時間をかけ長老の世代交替のルールを形造った。これは賢明な策であった。(3)今後の課題とは、すでに1980年代の本教会に萌芽し、牧師交替や長老たちの世代交替とともに顕著になっている問題である。

大きいのは洗足教会が1本の木としてのまま1本の木ではなく、日本伝道のために、、他の教会とどのような林や森を形成するかである。しかもそれは教団の中においてである。教会は決して単立や孤立では御旨に沿わないからである。次には中堅の年代層まで世代交替が出来たとしても、その後をどうするかである。高齢化し、成熟、円熟した先輩達の信仰をどのようにして後に遺すかである。この10年はこの問題と取り組む歩みであった。また当然のこととして高齢化した方々と共に守る礼拝のあり方、また若い人々を招けるような教会のあり方の追求がこの時代の本教会に対する問いかけである。しかし聖書により、教会に託された望みにより、その問題に対処しつつ、克服の道が少しずつ、開かれて行くであろう。

(洗足教会設立70周年記念誌「洗足教会70年史」 洗足教会  前牧師 橋爪忠夫 前書きより)