12月17日 10時から 聖日礼拝

 説教「先駆者ヨハネの誕生」 栗田三郎先生

ルカによる福音書 1章5節から25節

洗足教会 礼拝堂

ルカによる福音書 1章5節から25節

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」


 

説教「先駆者ヨハネの誕生」

栗田三郎先生
 

洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアは、御使いの言葉を信じなかったので、口が利けなくなりました。しかし、月が満ちて、妻エリザベトがヨハネを産んだとき、ザカリアの口が開き、舌がほどけ、神を讃美して、こう預言したと1章67節以下にあります。


「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、
我らのために救いの角(つの)を、
僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して
語られたとおりに。
それは、我らの敵、
すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは、
敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」

ことわざに「沈黙は金、雄弁は銀」と言います。沈黙は、自分の義を主張せず、義を神にゆだねること。そこに祈りが始まります。沈黙の内に預言が熟成します。ワインや生ハムが熟成するように、祈りの言葉、預言の言葉が熟成します。
モーセは口下手でした。エレミヤもパウロもそうでした。エゼキエルは言葉がしゃべれなくなりました(エゼ3,26、24,27)。ダニエルは意識を失いました(ダニ10,9)。ヨブは口に手を置きました(ヨブ40,4)。ザカリアも口が利けなくなりました。口下手でも、言葉を失っても、神の御手により用いられる時が来ます。沈黙の内に言葉が成熟します。それは神の手になることです。
 
洗礼者ヨハネの誕生の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、四つの福音書の内で、この「ルカによる福音書」にしかありません。
ところで、洗礼者ヨハネとは何者なのでしょう。もちろん、ヨハネによる福音書を書いた人ではありません。ヨハネによる福音書が書かれる以前に、更に、主イエスの十字架よりも前に、洗礼者ヨハネはヘロデ王に殺されています。ヘロデ王が、自分の不倫相手ヘロディアの娘の所望でヨハネの首をはねたことは、マタイとマルコ福音書に書かれています。ヨハネによる福音書の記者は、イエスが弟子にしたゼベダイの子ヨハネと永く信じられて来ました。しかし、最近の研究によれば、どうもそうでもないらしいのです。また、ヨハネ福音書の著者とヨハネの手紙の著者もまた、同じ時代、同じ思想傾向の人物とみなされているものの、別人の可能性が考えられています。それら聖書記者のヨハネと、きょう取り上げる洗礼者ヨハネもまた別人物です。聖書には、「ヨハネの黙示録」という書物もあります。これもまた別のヨハネです。聖書には同名の登場人物が複数出てきます。そのこともまた、聖書を分かりづらくしている一因です。聖書を手にしてまだ間もない人は、聖書記者のヨハネと、きょう話題にする洗礼者ヨハネとは別人物であることを心に留めてください。よく、間違われることです。

洗礼者ヨハネの一番重大な役割は、イエスに洗礼をさずけることです。そのことは、四つの福音書のどれもに書かれています。この洗礼者ヨハネがヘロデ王に殺されたことも、全ての福音書に書かれています。確かに、ヨハネによる福音書には、投獄されたとしか書かれていません(ヨハ3,24)。しかし、大筋はヘロデ王に殺されたと読んでいいでしょう。ところが、この洗礼者ヨハネの誕生物語は、ルカによる福音書だけにしかありません。ルカによる福音書だけにしかないことをもって、この出来事を、事実として信じるに値しない、ルカの創作とみなすことは出来ません。キリスト教会の歴史で、そうした誘惑が過去に一度もなかった訳ではありません。しかし、神の権威に基づく教会会議は、ルカによる福音書のこの記述も神の霊感によって書かれたものとしました。主イエス・キリストの十字架をあかしする出来事としたのです。
ところで、きょうの説教題は「先駆者ヨハネの誕生」としました。先駆者という言葉は、新共同訳の福音書のどこにも用いられていません。しかし、福音書は、洗礼者ヨハネについて、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(イザヤ40,3)とイザヤ書を引用しています。きょうの説教題では、その「主の道を整え」る者という意味で「先駆者」という言葉を用いました。マラキ書の三章に「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。救い主キリストが来る前に、先駆者として、まずエリヤが現れると、当時、信じられていました。また、マタイによる福音書は、イエスの言葉を通じて、洗礼者ヨハネがエリヤであることを証言しています(マタイ11,14)。先ほど、洗礼者ヨハネの役割は、イエスにバプテスマ、洗礼をさずけることであると言いました。神のひとり子であり、天の父ご本人であるイエスが、しかし、どうして洗礼を受けなければならないのでしょう。そのことは、主イエス・キリストにおける三位一体の人性に関わることで、大いなる神秘に関わることです。主イエスは、イザヤ
書53章、苦難の僕の預言にある通り、罪人として、先ず私たちの前に立ち、自ら洗礼をお受けになられました。主イエス御自身が、私たちに率先して洗礼をお受けになったのです。旧約聖書は、神の民が、神との契約の印として割礼を施さなければならないとしています。新約聖書では、救いに割礼の有無は問題とされないとされました。
しかし、それを根拠として、洗礼の有無が問題とされないと聖書は決して言いません。
神、御自身が私たちへの模範として洗礼をお受けになられたからです。
主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授かる前に、ヨハネが何をしていたかは、ルカによる福音書の三章に詳しく書かれています。短く紹介するために、マタイによる福音書の記事を引用します。それによれば、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」とあります。そして、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と預言したと書かれています。
ヨハネの父ザカリアは祭司です。その妻エリザベトは、アロン家の娘であったと書かれています。旧約聖書によれば、アロンはレビ人ですから、夫婦共に祭司の家系ということになります。エリザベトは不妊の女で、ザカリアと共に既に高齢であったと聖書は証言します。このことは創世記のアブラハム夫婦を思い起こさせます。既に高齢のアブラハム夫婦に息子イサクが産まれるという主の託宣があったとき、サラは、その言葉に対して、心の中で笑ったと聖書はしるします。主は、そのことでサラを咎めましたが、その不信仰の酬いとして、サラが、口が利けなくなったとは書かれていません。ところがザカリアの場合には、御使いの言葉を疑ったので、口が利けなくなります。この違いは何でしょう。ザカリアが口が利けなくなったことは、確かに「信じなかったから」と聖書にかかれていますが、それは単に不信仰の酬いということではないと思います。冒頭で、「沈黙は、自分の義を主張せず、義を神にゆだねることで、そこに祈りが始まる」と申しました。沈黙の内に預言が熟成します。芳醇なワインや生ハムが熟成するように、祈りの言葉、預言の言葉が熟成します。先ほど読みましたザカリアの預言も、そのようにして成熟したのです。
その当時、パレスチナには一万八千人の祭司がいました。それが24の組に分かれていました。1つの組は年に二度、一週間の勤めが与えられました。単純計算すると、1つの組に750人の祭司がいたわけで、その誰が祭司の勤めを行うかは、しきたりにより、くじを引いて決めたそうです。そして、祭司の数が多いため、一度くじに当たれば生涯に二度とくじの機会が与えられなかったと言います。この当時、神殿はエルサレム神殿ひとつですから、当然の成りゆきです。今の様に、教会が各所にあって、そこで礼拝するという形は後の時代のものです。では、ひとつの神殿に、なぜ祭司がそれほど沢山いたかというと、イスラエルのひとつの部族が祭司の職を担ったからです。生涯に一度きりの公務につき、それ以外の時は何もしない祭司が一万八千もいたというのはあまりにも異常です。実際には、普段、彼らは農耕をしていたのかも知れません。あるいは、修道院の修道士の様な生活をしていたのかも知れません。はっきりしたことは分かっていません。とにかく、ザカリアにとって、このときが、生涯で、最初で最後の神殿奉仕でした。そこに天使ガブリエルが現れ、ザカリアの妻エリザベトに男の子が産まれ、その子が、やがてエリヤの霊と力で主の先備えをすると告げられます。天使ガブリエルという名はダニエル書にあります(ダニ8,16、9,21)。天使ガブリエルは、このあと、イエスの母マリアの所にも現れ、主イエス・キリストの誕生を告げます。ザカリアは、初めての神殿奉仕で極度に緊張していました。最初、緊張
と疲れのために幻覚を見たとでも思ったのでしょう。天使ガブリエルの言葉が信じられなくて当然です。ザカリアも祭司です。旧約聖書に書かれたアブラハム夫婦に起こった出来事を知っていたはずです。まさか、アブラハムに起こったことが自分の身に起こるとは、ザカリアにとって青天の霹靂です。天使がザカリアの身に何らの細工をしなくても、喜びと主への感謝のあまり、口が利けなくなったということも十分に想像できることです。それほどの喜びで、このルカ福音書は始まるのです。少なくとも、不信仰の報いとして、ザカリアの口が利けなることで始まるのではないことは確かです。
 
いまの世は雑音と騒音で溢れています。神の声が聞き取れません。テレビやラジオ、最近ではインター・ネットも24時間、情報をたれ流しています。コンビニエンス・ストアも24時間、日曜日も休まず、明かりを光々と灯しています。電車に乗れば、駅ごとに、親切にも、次の駅がどこかが放送されます。乗り換え線の案内があります。
お年寄りや身体の不自由な方の優先席付近では携帯電話の電源を切るように、繰り返しアナウスがあります。最近では、それを英語で繰り返しています。お年寄りに席を譲る様に促します。雨が降れば傘を忘れないように注意するアナウスが、電車が止まる毎に繰り返されます。乗り降りのマナーを言い、時報まで通報する車掌がいます。
バスはバスで、これまた走行中に沿線の商店や病院の宣伝テープをひっきりなしに流します。これでは、電車やバスの中で落ち着いて本も読めません。都会の喧噪の中では、風の音、雨の音など自然の音さえかき消されてしまいます。ひとりになることもままなりません。
そうした中、日曜日、私たちは教会に集められ、すべての都会の喧噪や雑音から離れ、礼拝で、ひとり神に対座します。私たちは、複数の私たちであっても、礼拝では、それぞれ神さまに対座するひとりです。いま、説教を通して、神の言葉にひとりで対座しています。神の言葉に、ひとりで耳を澄ましています。いま、ひとりで沈黙しています。ザカリアのように沈黙して、この世に遣わされる御言葉の使者として、言葉の熟成を待っています。
 
よく、どう祈ったらよいか分からないという声を耳にします。祈ることが出来ないという声も耳にします。洗礼を受けたキリスト者でも、忙しさの中で、祈れないこと、あるいは、祈らないことに引け目を感じていらっしゃる人を見かけます。祈らなくてもいいとは言いません。しかし、祈らなければならないと心に思う時点で、聖霊があなたを捉えていてくださる。そうして、実際に祈らなくても、祈れなくても、聖霊が呻きをもって、あなたに代わって祈って下さるのですから、それでもいいのです。あなたがひとりになるとき、トイレの中で、あるいは眠るとき、あなたの霊は聖霊と会話を交わします。それが祈りになっています。
ところで、祈りには形があります。形はどうでもよいとは思いません。教会は、その形を学ぶ所です。「天の父よ」あるいは、もっと丁寧には「天にいらっしゃる主イエス・キリストの父なる神さま」で始まり、「主イエス・キリストの名によってこの祈りを捧げます」で終わる祈りの形は、それ自体ひとつの信仰告白を含んでいます。
それは、二千年のキリスト者の祈りを背景に持つ祈りの形です。教会での祈りは、公の祈りという側面もありますが、世の雑音から離れて、神と一対一の面談をする、その訓練ということもできます。その場合の本来の祈りは、マタイの六章の「隠れたところでの祈り」です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6,6-8)。教会の何らかの集会で、自分に順番が回って祈らなければならないとき、立派な祈りが出来なくても構いません。それは、隠れた部屋での祈りの訓練であると考えてください。ザカリアのように言葉を失うこともあるでしょう。やがて、祈りの言葉は整理され、秩序立ったものにされます。
それには時が必用です。
ザカリアが喜びのあまり口が利けなくなったとは逆に、悲しみに言葉を失う場合もあります。今の世は悲しく、嘆かわしい出来事で溢れています。都会生活の喧噪はそうしたことへの感性を麻痺させます。毎日のように殺人事件や戦争の報道がされます。レイプや淫行、万引や恐喝、詐欺(さぎ)や収賄(しゅうわい)、そうしたニュースに私たちは慣れてしまっています。私たちは自分と無関係と思います。しかし、それらのことに神さまは決して無関心であるはずがありません。私たちを感性の麻痺から救うのも、教会の重大な働きです。私たちが痛む時、神も痛みます。同様に、神が痛むとき、私たちも痛むのです。神の愛と憐れみに、私たちは答え、神の愛と憐れみに私たちは生かされます。神と人間との関係を正常に取り戻すところ、そこが礼拝です。
悲しく、嘆かわしい出来事に出逢うとき、私たちは言葉を失います。言葉を失うとき、祈りが始まります。
ある詩人が、「オーケストラの音が響き終わるとき、そのとき沈黙が聞こえてくる」
と言いました。私たちが耳で聞き取ることのできる音や、意味を理解できる言葉が途
切れる瞬間、雑音で溢れるこの世で聞き取ることのできないもの、人間の言葉で把握
不可能なものへの通信回路が開かれます。このとき、私たちは「天の父なる神様」と
呼びかけることの出来る幸いを得ているのです。

 


祈ります。
 天のイエス・キリストの父なる神さま、きょう、礼拝に招かれて御言葉をいただき
ました。ありがとうございます。きょうは、イエス・キリストの道を整えた先駆者ヨ
ハネの父ザカリアの沈黙と、それによる言葉の熟成を知りました。いま、主イエス・
キリストの誕生を静かに待つときです。クリスマスのまことの喜びを、世に告げ知ら
せることができますように。お祭り騒ぎや華美な装飾にわきたつこの時、世の人を教
会に招き、静かにあなたの御降誕を待ち望むことができますように。世の不条理とあ
なたの悲しみをしっかりと見据え、祈りと愛に生きるように、私たちを整えてくださ
い。口下手で言葉足らずの私たちに、言葉を失う私たちに、沈黙の祈りの中で、あな
たの言葉を醸し出してください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前に捧げます。アーメン。