イザヤ書11章1〜10節

和の王
(1)エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
(2)その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
(3)彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
(4)弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
(5)正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。

(6)狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
(7)牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
(8)乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
(9)わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
(10)その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。

 

讃美歌96番の「エサイのねより おいいでたる くすしきはなは さきそめけり」はクリスマスが近づくとよく歌われるものの一つです。

この詩はイザヤ書の11章の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若株が育ち その上に主の霊がとどまる」(1節)からとられたものです。この96番は15世紀頃のドイツ・カロルのようで、今回の讃美歌21では「…よげんによりてつたえられし ばらはさきぬ」(248番)と原詩に忠実に訳されています。この歌や聖書の言葉から、はたしてどのようなイメージが私たちの胸にわくでしょうか。ごく自然な若々しい木々の芽吹きや、若枝の育つ姿を想像するかもしれません。そしてそこにばらが歌われていることから、一層の彩りが添えられます。
 しかしイザヤが伝える木の様子はそれほど自然なものではありません。本来、芽は枝から、若枝は幹から出るものです。直接に株から、あるいは根から出るものではありません。株と言われているのは、正しくは切株です。その切株から芽が出、もう切り倒されて死んだと思われた木の根から、思いがけなく若枝が出だというのが、イザヤの言葉であり、この歌詞です。その上に主の霊がとどまる。この芽とか若枝は新しい王を指しているようで、彼によって正義と公平が実現し、また平和が訪れると語っているのが、この聖書の言葉の大略です。切株から芽、若枝が出るとは、預言者イザヤが生きた旧約のイスラエルを象徴し、御子キリストが降誕するまでの長いイスラエルの歩みを象徴する言葉です。
 いったい切株や根から直接芽や若枝が出るとはどういうことでしょうか。エッサイとは紀元前千年頃にイスラエルに繁栄をもたらしたダビデ王の父親の名です。このダビデにソロモンが続き、王朝は続きました。そして、二百年後に活躍したのが預言者イザヤです。彼はこの三百年を振り返り、また彼の生きた時代の中で、時の指導者や民に語っています。この二百年に何があったのでしょうか。ダビデ、ソロモンの繁栄の後のイスラエルの歴史は厳しさが増します。紀元前921年に王国は南北に分裂し、イザヤの目の前で紀元前721年に北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされました。この強大なアッシリアと他方、南西に控える古くからの大国エジプトの間で彼の国・南ユダ王国はまるで小舟のように揺れ続けます。亡国一歩手前のところで、王も、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ピゼキヤと代わります。従って切株とか根というのはエッサイから出たダビデ王朝の意でしょう。事実、南ユダ王国はダビデ王家の血筋を引く王が続きます。これら代替わりする王たちは、強国になびき、イスラエルの真の王である神ヤーウェを忘れ、正義や公平をないがしろにする故に神より切り倒されるという歴史が続きます。そうすると切株から出る若枝とは一面から言えば、予言者イザヤの期待をも表しているかもしれません。今度の若枝は、つまり王は神に従い、正義と公平、そして平和を実現してくれるだろうかと。しかしその期待は裏切られ、またしても切り倒されるという歴史が繰り返されます。繰り返し期待が裏切られます。年輪を重ねた大きな切株、しかももう死に絶えたかに見える切株、しかしそこに予想だにしなかったひとつの若枝が出て来るというのがイザヤが語っていることです。
 イスラエルの王制を振り返るとこんな気がして来ます。イスラエルは当時の周辺の国に比べて、当初は頑強なまでに王制を拒否して来ました。旧約の合言葉、イスラエルの真の王はただひとり神、ヤーウェなのです。しかし預言者サムエルの時代に民の声が勝ってサウル王の出現となりました。そしてダビデ王家の歴史となります。この王制三百年余は、王制ゆえに、イスラエルが異教や偶像礼拝に溺れ、また経済的な不正がはびこり、人々の道徳の低下が助長され、結局、王を戴くことは失敗であったと結論づけたくなります。王こそ罪の元凶だと言いたくなります。もう王は捨てられるべきで、全く違った体制やリーダーが表れるべきだと思わせられます。ところが、罪の元凶ともなった王朝の切株から、全く新しい若枝が出るというのがイザヤの預言です。その王によって、きっと正義、公正が実現し、すべての生き物の間にある敵意さえも無にするような平和が到来すると彼は語ります。それは「苦しみの炉で試み」(イザヤ48章10節)られてから出て来る、ただ上からの霊によって油注がれた王者の出現でなくて何でしょうか。このような長い歴史の苦悩の中から、もう人間的な期待や望みが絶えてしまったかに思われる中で、本当に主なる神を知り、「大地は主を知る知識で満たされる」(9節)ように人々を治める王(メシア)、が、主なる神の霊によって現れると彼は預言しています。そして、その望みがさらに練られ、清められて行くのがその後の旧約の歴史でしょう。私たちもその歴史をたどりながら、切株から生い出る若枝が、どのように練られ、どのような王として型取られるかを目で追いながら、御子キリストなる王の出現に至るまでをたどるべきでしょう。どのような若枝、王が現れるのか、それを問い、待ち望むことこそ、クリスマスヘの大切な備えです。
 使徒言行録8章26節以下にフィリポとエチオピアの高官との印象深い対話が記されています。高官はイザヤ書52章13節以下の「王なる主の僕の歌」の「乾いた地に埋れた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。…彼は、羊のように屠り場に引.かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。…彼の命は地上から取り去られるからだ」に来て理解に窮しました。これはいったいだれのことを言っているのかと。それは彼の日頃仕えるエチオピアの王とはあまりにも違った王者の姿だったからです。しかし乾いた地に埋もれた根、切り倒された株から、その不毛と絶望を経て、まことの王者キリストが生い出たとフィピポは説きました。このクリスマスに、旧新約聖書のもつ大きなスケールでキリストを待ち、キリストと出会いましょう。                      (牧師 橋爪 忠夫)