「その名をヨハネと名付ける」 |
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ルカによる福音書では、主イエスの御降誕に先だって、洗礼者ヨハネの誕生の物語が記されています。このヨハネの誕生の記事はその喜びに満ちた誕生そのものを描きながらも、焦点を八日後のイスラエルの習慣、割礼の際の命名に当てています。母エリザベトは当時の父の名にちなんで命名するという習慣に反し、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」(60節)と発言します。人々は母親のこの思いがけない発言をいぶかり、「あなたの親類には、そういう名のついた人はだれもいない」と再考を促しました。そして本来、子に名をつける権利を持っていた父ザカリアに手振りで尋ねました。彼は子どもを与えるという天使の告知を信じない故に、口のきけない状態でした。その彼が、字を書く板に、はっきりと「この子の名はヨハネ」と書いた(61節〜63節)のです。このことに人々は皆、驚きました。そして、さらに驚きが続きます。というのは、すると、たちまちザカリアの不自由な口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたからです。その子の名を人々の予想や習わしに従ってザカリアではなく、あくまでヨハネという名を主張して、神讃美をはじめたからです。人々はこのことに驚き、また驚きを通り越して恐れを感じ、ユダヤの山里中に触れ回るほどでした。 ヨハネという名前は主が憐れむとか主が恵むという意味です。神はどうして、自らこの子の名付けにこのように深くかかわり給うのでしょうか。聖書を振り返ってみても、神が直接に名前を指示したのは、これ以前にはアブラハムの子、イサクの場合のみです。そしてこの後には御独り子、イエスのみです。したがってこのヨハネという命名がいかに例外的な特別な場合かがわかります。しかし、聖書は神が直接名付け親にならなくとも、神が人の名を呼び、名を覚えられていることを印象深く繰り返しています。 このような聖書の示唆により人の名前のもつ深い意味に注目したポール・トゥルニエというスイス人がいます。彼は人が名付けることによって、名付けられたものは単に物ではなく人格が与えられると述べています。名付けるということは、人を物やかたまりではなく、一個の統合した人格に誕生させることになります。物から人格へという大きな飛躍は、その基には神がおられ、神が働いておられるからこそ起こるものです。人格とは、究極的には神の呼びかける相手とされることに深い意義をもつものです。 主イエスの降誕を前にしたヨハネの誕生でそこに焦点を当てられていることは興味の尽きない事です。これによって来るべき救い主のもたらす救いの内容が暗示されていると言っても良いのではないでしょうか。 |
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月報「せんぞく」1999年12月号説教より抜粋 |
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