「時満ちて生まれた御子」 |
ルカによる福音書2章1〜12節 |
ガラテヤの信徒への手紙4章4節 |
当時の世界に君臨する強大なローマ帝国アウグストゥスが全領土の住民に、住民登録せよとの勅命を出した。それは圧倒的な剣の威力で被征服民に、税金を取り立てるための頭数調べでした。時代は暗いものでした。 主イエスの父母となるヨセフとマリアはその支配者の有無を言わせぬむちに追われて、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムという町へ赴きました。彼はダビデ家の出身だったからです。 ダビデと言えば、かつてイスラエルに最大の繁栄をもたらした王者です。その家の出身者ヨセフは、世が世ならば、全く違う身分にあったでしょう。昔の栄光は、このようなむちに追われる彼を、一層悲しませたことでしょう。 彼にとって、時の経過は恐ろしいほど過酷なものでした。しかもダビデ王の末裔としてマリアから生まれた主イエスの寝台は、まことにみすぼらしい家畜小屋の飼葉桶でありました。ローマの強大な剣の力が世界を支配し、その中でかつての栄光を背負いながら極致まで落ちぶれた王者の末裔の姿を思い浮かべる時、私たちは時の移り変わりというものにどうして明るいものを描くことができるでしょうか。 しかし、福音書記者ルカは、このような暗さにも決して圧倒されない良き音信を語っています。それはこのような一見暗いと思われる時の流れも、人々や世界がひたすら闇に向うのではなく、時は神によって一つの目標に満ちていく。その一点の目標こそ、10節で語られている天使のみ告げです。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(11)今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 皇帝アウグストゥスがどんなに武力に訴えて時代を支配しても、ガリラヤの領主ヘロデが王が新しい王の誕生をねたみ、ベツレヘム一帯の幼子虐殺という冷酷な挙に出ようとも彼らが時の主人ではありません。彼らのさらに上に時の支配者がおられます。彼らもその方の支配を免れません。 この支配者である神は、時を救い主の誕生に向けて満たされるのです。時は神のものです。キリストをこの世に送り、この世を救われようとする神のものです。 それではいつ、私たちにとって暗い時のイメージが新しく塗り替えられるのでしょうか。 あるいは活動の終盤にエルサレムに近いエリコの町に入って、人々に嫌われていた徴税人ザアカイに出会ったとき、主は「今日、救いがこの家に訪れた」(19章9節)と語りました。 そして最後はゴルゴダの丘の十字架の上で、共に十字架にかけられた一人の犯罪人に向って、主は「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(23章43節)と確約なさいました。 キリストにあるかぎり、今日から、時は救いに向って満ちて行くものになります。救い主の誕生は、今日という時を全く変え、時の流れを神の国へ向かう明日へと変えてくれるのです。 |
月報「せんぞく」1995年12月号 |