説教 主よ、来てください(マラナ・タ)

マタイによる福音書11章2〜15節
コリントの信徒への手紙(1)16章21〜24節

牧師 橋爪 忠夫

 キリスト降誕の前に守られる教会暦に従った待降節(アドベント)のときにもつ素朴な問いは、すでにキリストがお生れになったのに、なぜ待つのか、待降のとき、つまりアドベントなのかということではないでしょうか。この時節は、すでにキリストは生れているのに、そのことを追体験するための暦の上での人為的に工夫された一種のフィクション(虚構)なのでしょうか。実はそうではなく、まさに私たちこそ、ことの深い意味でアドベントをすごしており、真の意味でマラナ・タ(主よ、来てください)と祈るのだということを今日は確かめたいと思っています。
 マタイによる福音書には獄中の洗礼者ヨハネから主イエスのもとに、このような質問が寄せられたとあります。それは興味本位や単なる謎解きに類したものではありません。その質問には洗礼者ヨハネのこれまでのすべて、さらにその将来の運命がかかっていると言ってよい、存在をかけた問いです。それは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3節)というものです。この問いはただヨハネという一個の人物を左右するだけのものとは思われません。当時のイスラエルは言うに及ばず、世界の歴史、そして今日の私たちをも左右する重い問いではないでしょうか。というのは「来るべき方」とは当時の意味ではメシア、すなわち救い主のことです。救い主がすでに来ているかどうか、しかもヨハネが問うているのは、単に救い主と自ら僣称したり、人々に祭り上げられたりする人物のことではありません。これは真の神から遣わされた真の救い主かどうか、そしてもし主イエスがそうであれば、すでに待つ時は終った、もしそうでなければ、さらに待ち続けるということになります。こういう救い主のすでに出現したか、それとも依然として待つのかに、実は当時も現在の世界も、それ如何にかかっているということを忘れている、これがこの世界の一番犬きな問題ではないでしょうか。ただ自分のこと、目に見える身近なことしか見ようとしない、実はそれが昔も今も変わらぬ世界の問題なのです。この問い掛けをもたず、発しない故に、この世界は胸のつかえが消えず、もやもやした五里霧中の中を手探りを続けなければならないのではないでしょうか。

 私たちは今、アドベントの時を過ごしています。このアドベントとはいったい何でしょうか。私はそれはやはり、ヨハネが主イエスに発した、来るべき方はあなたか、それとも誰かを別に待つべきか、という問いを発し、その答えを待つというときではないかと思います。換言するとこういうことになります。もし主イエスから私こそ救い主だという答えがあれば、それは「すでに」来たということになるでしょう。しかし、もっと別の人を待つべきだという答えてあれば、これは「いまだ」ということになります。つまり、アドベントとは、このすでにと未だという間にあるということです。洗礼者ヨハネの問い、そして当時の心ある人々は救い主に関して、すでになのか、未だなのかの間で揺れ動いていました。しかし私たちは、また私たちの守るアドベントは言葉は似ていても、大分状況は違います。確信をもって主イエスこそ救い主であり、その方はすでに生まれ、この世を訪れ、その十字架と復活の尊いご生涯をなし終えられました。その意味ではすでになのです。しかし他方、その御業は未だ完成していません。再び来られて完成をなさるという約束をされました。使徒信条が唱えるように「かしこより来りて」という再臨があります。待つべき人が、この人かあの人かではありません。すでに来られたキリストが、今来られ、また再び来られることを待ち望んでいるのです。これこそ本当の意味でアドベントであり、待望するということです。それは決して当てどないもの、淡い期待ではなく、強烈な、確信をもった期待です。そのような意味で、この教会暦上のアドベントは、私たちの真のあり方、実存を表わしています。

 洗礼者ヨハネの問いに主イエスがどのように答えておられるのかに興味がわきます。主イエスは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目に見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(455節)と答えられました。これらは旧約のイザヤ書の救い主の出現を預言した言葉(29、35、61章)の実現です。間接的ですが、ご自分こそまさに来るべき救い主であると述べているのに他なりません。特に「福音が告げ知らされている」ということがその何よりの証しです。しかし、不思議なことに主イエスはそのことよりも、この質問を発した洗礼者ヨハネについて随分多くの言葉を費やして説明しているように思われます。要約すれば彼こそ「預言者」、しかも預言者中の最大のものであると述べています。しかもこのヨハネを境にして時というものが全く変わったという趣旨のことを述べておられます。「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(13節)と。これは何を物語ろうとしているのでしょうか。それは概ね二つのことを表わしているのでしょう。一つはヨハネの時は終り、救い主を純粋に待つだけの時は終っだということです。しかし他方、どうしてこのような預言者ヨハネに詳しい説明を施したのかといえば、新しい意味で、私たちは、この救い主なる主イエス・キリストの再び来られる時を待つようになったからではないでしょうか。今度はヨハネに代って私たちが、再び主の来られるのを待ち、「マラナ・タ」(一コリント16章2節)と祈り、叫ばなければならないからです。
 過日の教会全体修養会で講師の赤木先生が、この言葉は礼拝のクライマックスで発せられる言葉、聖餐の頂点であるとO・クルマンの言葉を引用して紹介されました。しかりなのです。私たちこそ、礼拝に集い、こう期待を込めて祈るものなのです。私たちはすでに来られた救い主を、再び待つ、という時の間にいるのです。