ヨハネによる福音書 1章29節〜34節

◆神の小羊
(29)その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(30)『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。(31)わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」(32)そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。(33)わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。(34)わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

説教      「待降の人」         橋爪忠夫牧師

今、私たちはクリスマス前の待降のときを過ごしています。主の御降誕を待つ待降の時、一人の人物が思い浮かんできます。キリストの現れるのを今か今かと待ち望んでいた待望の頂点にいる人、それは洗礼者ヨハネです。

主イエスはある時、ヨハネについて、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれでもが力づくでそこに入ろうとしている。」(ルカ16章16節)と言いました。これは意味深長な言葉です。ヨハネを境にして、律法と預言者に代表される古い旧約の時代から、主イエスによる新しい神の国の福音の時代、新約の時代に移り変わる。それならば彼こそは待降節の絶頂にいる人物と見るのは当然の事です。そしてヨハネこそ待降とは何かを私達に示すことができる人物です。

彼はついにその方イエスに会いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(30)『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(29〜30節)

ここにはかねてより待っていた人にとうとう会えたという気持が確かにあります。そうです。その方自らヨハネのところに会いに来ました。それで彼の待望は成就なのでしょうか。そうではないらしいのです。それを裏書きするのが「わたしはこの方を知らなかった」(31節)(33節)という言葉です。この知らなかったとは単純な過去形ではなく、文法的な時制では過去完了で、なお知らないことが続いているというニュアンスがあります。彼はキリストを見ました。それで即、キリストを知ることになったのではありません。まだ本当にキリストを知ることは満たされていないのです。

「知る」ということはどういうことでしょうか。「良い羊飼い」のたとえから学びましょう。「(14)わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(15)それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネによる福音書10章14節〜15節)ここに主イエスと私たちとの知るという関係が見事に描かれています。それは御子イエスと父なる神との関係でもあります。この意味で私たちが本当に主を知るということは主が羊飼のために「命を捨てる」方だということを知る。この方は命を捨ててくださるほどの方だと信じる事です。

そこで「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とヨハネが叫んだことが、彼自身が意識している以上にキリストを知ることの本当の意味を明らかにしています。これは、イスラエルの出エジプトの記念として守られる過越の祭りの前夜、ほふられる子羊に由来します。私たちの罪、世の罪を除くために犠牲となって私たちをその罪からあがなって下さる方、それこそ神の子羊なるイエス・キリストです。ヨハネは待望するのです。主イエスを、世の罪を取り除く神の子羊として知ることを。それを確かにすることを。

私たちも、ヨハネが叫んだように「世の罪を取り除く神の子羊」として本当にキリストを知るように、待ちたいのです。これは単にそう言うにとどまりません。自分の身を、将来を、そしてすべてをこれにまかせることができるまで、続くのです。主が再び来られる時まで、私たちはアドベントです。あがなわれたゆえに、さらに強く待ち望みます、キリストを。

月報「せんぞく」1996年12月号より抜粋