「神われらと共にいます」 

飯田英章神学生

 

 「神は我われと共におられる」と言う神様の救済史の中にどのようにして神様が、わたし自身を組み入れてくださったのかということを短い時間をいただいてお話したいと思います。

 わたし達ははじめから「神われらと共に」ということを信じて生きているわけではありません。「神われらと共に」ということが起こるのは、最初は神様の方から、あるとき突然「わたしはあなたと共にいる」と人に語りかけることから始まるのだと思います。その人の人生の中で、その人の歴史の中に、「わたしはあなたと共にいるよ」と言う語りかけが起こり、その人がそれを心の中に聞くということが起こる。そして次第にか、急激にか、その人の人生が変わり、自分ひとりの人生から、「神、共にいます」と言う人生へと変えられるということが起こるのだと思います。

 わたしもすでに、人生の後半になりましたが、わたしの歩んできた道を振り返って見ますとさまざまな出来事がありました。その出来事の意味がわかってくる、ああそれはこういうことだったのかと明らかになってきたこともありますし、あの出来事の意味とは一体どういうことだったのかといまだ良くわからないこともあります。しかしながら、そうしたさまざまな出来事の中で、今振り返ってみて、「わたしはあなたと共にいる」と言う声を聞いた時が確かにあった、またその時は特定できるのではないかと思っております。

 それは今からもう半世紀ほども前のことです。わたしは中学生でしたが、山岳部に入っていました。ある夏の日の夕方、一人で部室に入ると、一冊の小さな新約聖書が机の上においてありました。それは、昭和97版という粗末な文語体の聖書でした。それは個人のものでなく、中学校基督教青年会という判が押してありましたのであまり後ろめたさも感じずに家に持って帰り、机の引き出しにしまいました。そしてそれ以来、家で一人で読むようになりました。鬱屈した、心がふさがれるような感情を持つことの多かった青春時代に確かにその小さな聖書は私と共にありました。

 もちろんひとりで自己流に読むわけですから主キリストの福音を正しく理解するということはありませんでしたが、それでも、そのとき確かに神様の「わたしはあなたと共にいる」と言う呼びかけを聞いたのだと思います。そしてその時のことをいま懐かしく感謝と共に思い返しています。

 さて、わたしの母は今年の春、天に召されましたが、母は、わたしが若いころ、就職するときから病気がちでした。わたしは都庁に入りましたので、当時は都庁は有楽町にあり、バスで有楽町まで通っていました。バスが六本木の坂を下ると、右手の高台の上に、いつも教会の塔が見えました。

 毎朝、バスから教会の塔を眺めているうちに、あの教会に行って、母の病気が良くなるよう神様に祈ってみよう、聖書にはイエス様が病人を癒された記事がたくさん出てくるではないかと考えて、霊南坂教会の夕礼拝に出席するようになりました。そして、1965年のクリスマスにキリストの洗礼を受け、教会の枝とされたのであります。

 「神は我われと共におられる」と言う言葉は、本来、キリストの教会に集められた人々の共同の信仰の表明でありましょう。一人一人の人生の歩みの中で、「わたしはあなたと共にいる」と言う声を聞いた一人一人が、教会に集められ、「神は我われと共におられる」と信仰を表明し、神様を礼拝し共に讃美するのであります。このことは、一人一人の歴史の中に神様が歩み入ってくださり、教会において生きておられる神様の救済の歴史に一人一人を組み込んでくださるということではないかと考えます。

 このように「神は我われと共におられる」と言う言葉は、本来信じるものの共同体である教会の信仰の表明でありますが、神様の大きな宇宙的な救済の歴史から言えば、われわれとは人間そのもの、神様を信じるものも、信じないものをも含む、すべての人間とも考えられます。クリスマスの御子、神の独り子であられるイエス・キリストは、全き人間としてお生まれになり、人間の苦難と悲惨の歴史を歩まれました。そしてすべての人間の罪の賦いとして、十字架にお架かりになったのであります。そしてわたし達がそのことを知らない先に、わたし達がまだ罪人であったときに、私たちの罪を赦し、すべての人の罪を赦してくださったのであります。このようなことから言えば、「神はわれわれと共におられる」と言う言葉はすべての人にとっての言葉であります。

 わたしは長年勤めた都庁を退職し、現在、東京神学大学の大学院で学んでいます。来年の春に卒業し、神様の御旨であれば、教会の伝道師として赴任することになるでしょう。東京神学大学では、大学入学のときと、大学院に入るとき、二度にわたってあなたに召命はありますかと学長を始め教授達から聞かれます。あなたは福音伝道のため、神様から召されていますか、と聞かれるのです。

 その都度わたしは、御言葉に仕えるよう召されていると思います。と答えてきましたが、正直に言うと、明確に言い切れるほど召命観はきっぱりしたものとはいえません。本当に牧会伝道に従事するのに自分はふさわしいだろうか、本当に教会で教会員の方々に仕えていくことができるのだろうか、といつでも心のそこで不安に思っています。しかしながら、今この時点でわたしの歩んできた人生、わたしのささやかな歴史を振り返るとき、わたしの歴史はもはやわたしだけの歴史とは言えません。わたしの歴史は「わたしはあなたと共にいる」と言ってわたしの歩みに介入してくださった神様の歴史でもあるのです。

 わたしはこれからの人生も「共におられる神」にお委ねして歩んでまいりたいと思っております。そして御旨であれば、「共におられる神」をまだ知らない人々にも、「神は我われと共におられる」と言うクリスマスのメッセージを宣べ伝えてまいりたいと考えるのであります。

 (2003年12月24日 クリスマス賛美礼拝 証し)